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2014年9月

2014年9月13日 (土)

女の商品価値が「女性の時代」を可能にしている

「これからは、働く女性の時代です」・・・
昔、マーケティング関係の本を読んでいた頃、よく目にした文句だ。
だが、彼らは、本当に女性が働くことを期待していたのだろうか?
もちろん、違う。彼らの仕事は商品を売ることであり、商品を売るためのキーワードが
「働く女性の時代」なのである。
「働く女性の時代」とは女性の持つ商品性、消費者性の上に成り立つ一種の商品である。
そして、女性に求められるのは、端的に言えば、実際に働くことというよりは、
「消費社会」という舞台の上で「働く女性」を演じることであり、演じる過程で、
企業が「働く女性のための製品」として開発した商品を買うことだといえる。
消費社会においては、商品性・消費者性が高い女性が舞台の主役なのだ。
そして、男性は脇役であり、裏方であり、観客なのである。

男性の脇役性は、バブル時に喧伝された「アッシー、みつぐ君」という言葉に
象徴されている。「アッシー、みつぐ君」は、男性が、高度消費社会に適応した一つの
形だった。彼らもまた、高度消費社会の舞台の上の役者なのである。
しかし、男性がいくら高度消費社会に適応しても、現状では、女性の脇役にしか
なれないという事だ。
もし、男性を主役として捉えなおせば、「アッシー」などとは呼ばれず、
主役にふさわしい名称が与えられたはずである。そして、女性には、
いかにも脇役っぽい名前が付けられただろう。

裏方性とは、「女性の時代」を裏で回しているのは、実は男性であるという意味である。
具体例を挙げるならば、マーケティング雑誌は「女性の時代」を喧伝するが、その
マーケティング雑誌の編集者も読者も殆ど男性である、ということに示されるだろう。

観客性とは、男性が観客であるということである。
なにしろ、舞台は、観客が見て初めて舞台として成り立つ。観客がいないことには、
女性たちは色々な役柄を演じることが出来ない。その観客を男性が務めなければ
いけないということである。

そういう視点で安倍政権の「ウーマノミクス」なるものを考えてみると、興味深い。
「ウーマノミクス」とは「女性が働き手として期待され、消費もリードする」という内容なのだが
私は、ここに「『女性は儲かる』の原則は壊しませんからご安心ください」という
ギョーカイへのメッセージを読み取る。
なにしろ、ある意味で女性が労働に進出して一番困るのは「これからは働く女性の時代」と
言っていた連中なのである。
なぜなら、下手に女性が男性化したら、女性の持つ商品性、消費者性が失われてしまう
からだ。

昔(25年位前)、初歩の経営学の本を読んだ時に「世の中に職業が存在するのは、
役割分担したほうが効率がいいからだ」と書いてあって、「なるほど、その通りだな」と
思った事がある。
例えば、私は、iPhone6を数万円で手に入れる事が出来るが、私一人でiPhone6を
作ることは、一生涯かかっても出来ない。
iPhone6は膨大な数の人(iPhone6そのものには関与していなくても、iPhone6が成り立つ
ために必要な全ての技術を開発した過去の人々を含む)の役割分担で出来上がる製品
だが、私は、私の役割(仕事)を数十時間果たすだけで、それを手に入れることができる
のである。
その代わり、各々の役割は、専門化・高度化し、人は、その人の適性に合わせて、
職業を選択して、それに専念することになる。
男女間でも、役割の分担が行われてきた。「男は仕事・稼ぎ、女は家事・消費」という
役割分担である。
ウーマノミクスに象徴される近年の風潮は「女性が仕事に進出し、収入を得るようになる
ので、女性の消費は今後もっと重要になる」
というものだが、これは、まやかしではないか?
「女性だけが、仕事に進出し、かつ消費者としての役割を増大させる」ということは
役割分担の原則から考えて不可能のように思えるのである。
女性だけが、男女の役割を両立できるオールマイティになることは出来ないのだ。
そういう意味で「女性の消費は今後もっと重要になる」などと言っている時点で、
女性の本当の意味での労働への進出を否定しているも同然なのである。
「女性は労働に進出し、男性は消費に進出するので、今後は男性の消費が重要になる」と
言うのならば、耳を傾けるに値するのだが。
私は「企業などの重要な役職の3割を女性にするなら、商業施設の売り場の3割を
男性向けの売り場に」と主張している。
奇妙に聞こえる人もいるかもしれないが、私は、案外真っ当な主張のつもりでいる。
「そんなに消費に熱心な男性はいないから、商業施設の売り上げが落ちる」と
考える人がいるかもしれない。
しかし、逆に言って、女性は企業の重要な役職の3割を占めるのにふさわしいほど、
仕事に熱心なのだろうか?
私にはそうは見えない。

近年の社会の「女性びいき」は異常である。
そして、女性がそれだけ持ち上げられるのは、女性が女性だからである。
女性の持つ商品性・消費者性が、それを可能にしているのである。
例えば、かつて「マルサの女」という映画があったが、現実のマルサは男性が
多いはずである。
しかし、映画になると「マルサの女」になってしまう。
女性の持つ商品価値がモノをいった結果である。
同様の現象が、現実の社会で起こっている。
男よりは女を祭り上げたほうが商品価値が高いのである。
例え、実際には、男性が担っている仕事であっても、
顔は女性にしてしまったほうが、話題性・商品性が高いということだ。

「実質は男性が担っているのだから構わない」という考え方もあるだろうが、
私は「辛い部分を男性が背負い、表面上のおいしい部分だけを女性が奪おうとしている」と
考える。
ところで、女性の商品価値は、男性(もっとはっきり言えば、男性の性欲)が支えている。
一方、女性たちは男性に商品価値を与えてはくれない。
それゆえに、女性は、女性であることを売り物に男性の世界に進出出来るが、
男性は、男性であることを売り物に女性の世界に進出できないという不公平が
生じているのではないか?
女性に商品価値を与え続けている限り、「社会の女性びいき」は続くだろう。
一体、男たちは、いつまで、女に商品価値を与え続けるのだろうか。
結果的に損をするのは自分たちだというのに・・・


関連記事:消費社会における男性差別構造を考える>

 

2014年9月12日 (金)

政府「男女共同参画」の欺瞞性

今回は、政府の「男女共同参画」の欺瞞性について書こうと思う。
「男女共同参画社会に関する世論調査」というものがある。
最近では、平成24年度に行われた。
ここで、私は、非常な不公平感を感じるのである。
「1.男女共同参画社会に関する意識について」として、
「(1) 各分野の男女の地位の平等感」を調査しているが、
  ア 家庭生活における男女の地位の平等感
  イ 職場における男女の地位の平等感
  ウ 学校教育の場における男女の地位の平等感
  エ 政治の場における男女の地位の平等感
  オ 法律や制度の上での男女の地位の平等感
  カ 社会通念・慣習・しきたりなどにおける男女の地位の平等感
  キ 自治会やNPOなどの地域活動の場における男女の地位の平等感
という選択肢しかない。
私が常々不満に思っている「消費における男性差別」を訴えようにも、
適切な選択肢がないのである。
(どの選択肢も当てはまらない)
一体、どういうことだろうか?
思い付きすらしないのだろうか?
それとも「消費において、男性は差別されている」ということを隠したくて仕方がない
のだろうか?
以前にも、この調査は、おかしなことをやっている。(平成12年度)
「女性のほうが優遇されている」という選択肢を選んだ男性に、
「女性の人権が尊重されていないと感じるのはどんな時か」と尋ねるのである。
聞くならば「男性の人権が尊重されていないと感じるのはどんな時か」についてで
あるべきではないか?
一連のこの調査は、万事この調子なのである。
要するに「男女共同参画」は男性差別に取り組むつもりは全くないということだ。
それゆえ、私は、男女平等には賛成だが、政府の進める「男女共同参画」には、
全く同意出来ないのである。

2014年9月 6日 (土)

男の価値を貶める男

大学入試が終了するとともに、私は、パソコン通信を始めた。
インターネットは、まだ普及しておらず、ネットとは電話回線で結び、
そのスピードも300bpsという、とてつもなくのろいものだった。
(300bpsはさすがに耐え切れず、大学1年生の夏に1200bpsのモデムを買った)
最初に私が入会したネットで、私は、すぐにCHATに嵌った。
そのCHATでの話である。
CHATも、常連として認定されるまではしばらくの期間が必要である。
しかし、ある時、女子高生がCHATにやってきた。
そして、すぐに彼女は人気者になったのだった。
(男性ではありえないスピードで、常連→人気者になった)
私は、はっきり言って彼女が嫌いだった。
普通ではありえないスピードで人気者になったのを僻んだのではない。
彼女がCHATに来ると、CHATの内容が実に下らなくなってしまうからだった。
もともと、CHATなんて、大した内容でないが、彼女がCHATにくると、明らかに
CHATの内容がつまらなくなった。
(端的に言えば、男性陣のちやほやに対し、女子高生がぶりっ子するだけの
内容になってしまう)
そして、問題が起きる。
そのネットのCHATは定員制で、定員を過ぎると、CHATに入れなくなり、
CHATに参加しているメンバーには、CHATに入ろうとしてが入れなかった人がいる
ということが通知されるようになっていた。
忘れもしない、私が20歳の誕生日のことだ。
私が、CHATに入ると、いきなり
「なんだよ。今、CHATに入ろうとした人がいたのにお前が入ってきたから入れなかったぞ。
Nちゃん(女子高生のハンドル)だったかも知れないのに」
という暴言を吐いた奴がいた。そいつのハンドルはMで、女子高生にぞっこんの奴だった。
私は、強い怒りを覚えた。
「そんなに、女子高生をCHATに入れたいなら、自分が出ていけば、彼女はCHATに
入れるぞ」
と言いたかった。
勿論、彼にとっては、彼自身と彼女がCHATしたいのであり、彼が出ていく羽目になったら、
彼女がCHATに入っても意味はないのだ。
自分だけは特別なのである。
しかし、客観的に見れば、彼は全然特別ではないし、女子高生を特別扱いし、男性を
貶める彼こそ、何の価値もない男そのものなのだった。
その後、彼は、オフ会で女子高生にまとわりついて、女子高生に嫌われ、ネットでも
隠語で呼ばれる立派な嫌われ者になったのだった。
実に、馬鹿なやつである。
しかし、この手の馬鹿が「男らしい男」であるらしいのも事実である。
女を特別扱いし、男性を貶める。勿論、自分だけは特別。
しかし、客観的に見れば、それは自分で自分を貶める行為のように思えてならないのだ。

2014年9月 5日 (金)

苦しみぬいた浪人生のころ

浪人生になったばかりの頃、私は、深夜にテレビで、ある映画を見た。
私が生まれたころに制作されたフランス映画で『昼顔』という作品名である。
あらすじは「お金持ちの人妻が、自分の中に潜む衝動に駆られて、自ら娼館に赴き、
昼間だけの娼婦になる」
というもので、進行の合間に主人公の心象風景が挿入される。
視聴者は、それが心象風景であることを知らず、ストーリー展開の一部だと思って
見るのだが、やがてその心象風景は、どんどん非現実的になってゆき、そこで、
ぱっと現実のストーリーに戻る。
そこで、視聴者は、今のがストーリーの一部ではなく、主人公の心象風景だということに
気付くのである。
私は、この映画を見ておかしくなってしまった。
特に心象風景は、私の精神に大いに動揺を与えた。そのマゾヒスチックな心象風景に
私の精神は共振してしまったのである。
私が、しょっちゅう、女性に感情移入して自慰をしていた事は前の記事に書いた。
自慰が終わるたびに、自分が男であることの不快感が高まったが、徐々にその不快感は
静まっていくのが通常だった。
しかし、その映画を見た後は違った。自分が男であることの不快感が暴走してしまった
のである。
私は、発作を起こした。過呼吸発作というのであろうか。死ぬのではないかと思った。
そして、その翌日から、私の図書館・本屋通いが始まった。
何としても、自分が男であることを自分自身に納得させなければならなかった。
しかし、自分が男である事を納得させられる資料は一向に見当たらず、それどころか、
女性に対する羨望感を高める資料ばかりが見つかるのだった。
例えば、図書館へ行けば、女性に関する本が沢山ある。しかし、男性に関する本は
まるでないのである。
(正確に言えば、その数年後に私を救うことになった、渡辺恒夫の本や下村満子の本は
既に発刊されていたが、私が発見することはできなかった。)
その現象は、「女性がマイノリティーだから、女性に関する本が沢山あるのに対し、
男性はマジョリティーだから男性に関する本はない」という理屈で説明されるのであろう。
しかし、私には「女性には価値があるから女性に関する本はたくさんあるが、男性である
ことには価値がないから男性に関する本はない」と思えてならないのだった。
そして、今度は、本屋に行けば、マーケティングの本がひたすら女性だけを取り上げ、
持ち上げているのだった。
私は、救いを求め、もがいたが、もがけばもがくほど、地獄に嵌っていった。
ある日、私は、気晴らしのために、パソコンショーに出かけた。
しかし、ちっとも気は晴れなかった。
パソコンショーでは、美しいコンパニオンさん達が、明るいスポットライトを浴びて
自分の魅力を見せびらかしていた。
醜い男である私は、暗闇の中から美しい彼女たちをただ羨望のまなざしで見るしか
ないのだった。
「彼女たちが羨ましい。女に生まれ、そして美人になって、自分の魅力を見せびらかして
いる。それに比べて自分は・・・」という思いが私を苦しめた。
夏に、私は所用があって、S駅の駅務室に入った。
そこで、私は、実に不愉快なものを見てしまったのだった。
駅務室に入ると若いOL風の女が泣き喚いているのである。
どうやら、不正乗車がばれて、駅務室に連れてこられたらしかった。
その女は、駅員が話しかけようとすると、その度に、わっと泣き出し、
「私、悪いことしようと思ってしたんじゃありませーん」と繰り返すのだった。
もう理屈も何もない。キセルしたのだから悪いことをしようと思ってしたに違いないのに。
泣くのも、嘘泣きだというのが、バレバレだった。
私は、腹が立って仕方がなかった。
女性に憧れる私でさえ、私が彼女と同じ立場になったとしても、あの場面で泣き喚くと
いうのは、ちょっと思いつかない事だ。
それを彼女は平然とやっているのである。
そして、マスメディアやマーケティングの連中が、持ち上げているのは、まさに彼女の
ような女であるように思えてならないのだった。
「女性は男よりも強い」とか。
一体、どこが?自分の不正がばれたのを泣き喚いてごまかそうとするのは、「強い」の
ではなく「厚かましい」のである。
私の悪感情は、どんどん強まり、勉強しようという意欲はまるで湧かなかった。
それどころではなかったのである。
やがて、受験の季節がやってきた。
私は、当然のように受験に落ちまくった。
一つの例外を除いては。
そして、その例外こそが、小学生の時から私が憧れつづけていた(付属の中学を受けた
が落ちた)大学なのだった。
奇跡だった。
その奇跡が起きていなかったら、私はとっくに自殺して、この世にいなかっただろう。
しかし、大学に受かったからといって、根本的な問題が解決するわけではない。
時代は、いよいよ、バブルというひたすら女性を礼賛する時代へと突入していった
のだった。

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