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2014年12月

2014年12月31日 (水)

雑誌から考える女性優遇

私には、毎月買っている雑誌がある。
「CanCam」と「Anecan」である。(どちらも電子版)
40代後半のおじさんが、20代女性向けのファッション誌を読んでいるというのも不気味だろうが、
それはともかく。
私が、Cancamという雑誌を知ったのは、30年以上前の中学2年の終わりの頃だ。
当時、深夜ラジオで「ミスDJリクエストパレード」という、女子大生がDJを務める番組が
放送されていて、そのスポンサーがCancam(小学館)だったのである。
まだ、創刊されたばかりだった同誌は、現在とはかなり違い、女子大生向け情報雑誌?のような内容だったらしい。
(今は、純ファッション雑誌)
「ミスDJリクエストパレード」のcancamのCMに出てくる素人の女性たちが、
「cancamガールの〇〇が午前1時をお知らせします」と喋るのを聞いて
「いまいち、馬鹿っぽいなー」と思ったのを思い出す。(知的な喋り方ではなかったので)

初めて、Cancamを買ったのは、2002年頃だと思う。当時は、まだamazonが雑誌を扱っておらず、
家の近所の書店で買っていた。
(かなり恥ずかしかった)
そのうち、amazonが雑誌を扱うようになり、amazonで買えるようになったが、そう頻繁には買っていなかった。
かさばるし、男の部屋から女性ファッション雑誌がごみとして出たら変だからである。
今は、毎号買っている。電子版なら安い(500円)し、物理的に場所をとってしまうこともない。

というわけで、私は、Cancam派なのだが、数カ月前、JJ(Cancamと類似の女性
ファッション誌。歴史的には、JJの方が本家。)をちょっと読みたくなってAmazonで
紙のJJを買った。
(JJは、電子版がないので、紙を買うしかない。JJに限らず、光文社の女性誌は
電子版がないので気軽に買えない。まぁ、おじさんに買ってもらえなくても痛くも痒くも
ないだろうが)
そして、届いたJJに触って驚いたのである。
ものすごくいい紙を使っていたからだ。
(いつも買うCancamは電子版なので、紙の質はわからない)
670円という値段で、あんないい紙を使った雑誌を与えられる女性たちは何と優遇されて
いることだろうか。
いい紙を使っているのは、決して偶然ではないと思う。
それだけ、JJの購読者層が、消費者として重視されていることに他ならないのだ。

書店の売り場にもそれが言える。
書店の一番いい場所は、女性向け雑誌のスペースになっていることが極めて多い
のである。

雑誌だけを考えても、こんなにも女性は優遇されているのだ。

2014年12月26日 (金)

成人男性が成人男性の論理で動くと「女性・こども」になる。

私と同世代の男性が、マーケティング業界で「こどもごころ」がどうたらこうたらと
やっているのを見て苦笑してしてしまった。
彼は本当の意味で「こどもごころ」に関心があるのだろうか?
まずないだろう。
彼は、飽くまでも、オンナコドモとは対局にある、成人男性の論理で動いているのである。
成人男性が成人男性の論理で動くと「こども」(あるいは女性)になるという、
逆説が生じている。
彼は、ひょっとしたら「こどもや女性が世の中を変えます」とでも語るかもしれない。
勿論、そんなのはフィクションである。
しかし、フィクションだとわかっていても、私には、大きなストレスなのだ。
それによって、クリスマスの街を楽しげに行き交う若い女性たちへの羨望が消えるわけ
ではないのである。

関連記事:

「女性は神聖にして侵すべからず」

「女アゲの男が出世する」という「危険なゲーム」

2014年12月24日 (水)

互いに矛盾し合った2つの強固な壁によって保護される女性の特権

女性の特権は、2つの強固な壁によって保護されているように感じる。
そして、その2つの壁は、互いに矛盾しあっているのだ。
すなわち「女性は劣位である」の壁と、「女性は優位である」の壁である。
例えば、「女性はスカートもズボンも履けるが、男性はズボンしか履けない」、
という事象を例にとると
まず、ぶちあたるのは「女性は劣位である」の壁であろう。
つまり、「スカートは劣位者の履くものなので、優位者である男性は履くことが出来ない。
逆に、劣位者である女性は、その劣位を補うために、ズボンを履くことが許される」
という理屈である。
なんとかその壁を破ると、次に現れるのが、「女性は優位である」の壁である。
「女性は美しい(優位)から、スカートもズボンも許される。男性は美しくない(劣位)から、
ズボンしか履いてはいけない」
という理屈である。
この互いに矛盾しあった2つの強固な壁によって、女性は、「衣装の自由」や
「危険からの保護」「社会で働く/働かないの選択」「子供に対する権利」などにおいて、
強大な特権を得ているのである。

2014年12月22日 (月)

ふざけるな!

私は、女性をずっと羨んできた。
女性は、華やかなショッピングを楽しむ特権を持っている。
私だって、仕事なんか5時で終えて、とっとと退社し、自分を「蝶よ、花よ」と
もてはやしてくれるデパートで買い物を楽しみたかったのだ。
しかし、男の私には、どうやら、それは与えられないものらしい。
悲しくて辛いけど、諦めて、では、自分に与えられるものは何か?と考えると
どうやら、それは「仕事」であるらしい。
そこで、仕方ないから、「では仕事に生きる喜びを見つけようか」となる訳である。
(本当は嫌なんだけど)

ところが。そこでフェミニズムから理不尽な主張がなされる。
「女性が差別されている」と。
そして、政治家がそれに媚びる。「企業の重要な役職の3割を女性にしましょう」
では、代わりに男性に、消費を楽しむ権利をくれるのかというと、
「女性が社会進出するので、女性の消費がこれからもっと重要になります」だと。
ふざけるな!!!!!!!!!
私の怒りは、全く正当なものだと確信している。

2014年12月 5日 (金)

「女性の時代」とは壮大な炎上商法である。

現代は「商業主義的女性の時代」です。 そして、商業資本が、それを演出しています。
「女性の時代」を構成する要素は複雑ですが、 フェミニズムによる女性推しよりも、
商業資本による女性推しの方が強いものと考えます。
というか、フェミニズムが言い出した「働く女性」を商業資本が商業的に利用するなど
商業資本がフェミニズムを利用していると言ってもいい位です。
今回は、そういうテーマについて書こうと思います。
性別で商品価値があるのは、「男性」か「女性」かと聞かれれば、大抵の人は「女性」と
答えると思います。 かつて、女性がその商品価値を発揮するのは、女性領域のみで
でした。
男性の聖域というものがあって、女性は、そこには立ち入らず、 男性を賛美したのです。
例えば、私が小学生の頃見たドラマでは、男性が男性性を発揮するのを見た女優が
「男の人っていいわね」 と呟くというのが定番でした。
これは、女性は男性の領域には立ち入らず、男性を尊敬するという了解があったという
ことです。
しかし、いつからか(70年代ウーマンリブあたりか?)、商業資本は、ある事実に気づき
ます。 「商品価値の高い女性を女性領域に閉じ込めず、これまで男性が占めていた役割
に進出させると儲かる」という事実です。
そこで登場するのが、「働く女性」など、「男性に勝るオンナ」ということです。
「働く女性」は「働く男性」を凌ぐ価値を有しています。商品価値において・・・ですが。
これらは、女性の商品価値・女性の消費者価値をベースにしており、どうしても「女」を
強調する事が必要です。
つまり、「働く女性」の真の価値は「働く」ではなく「女性」(の商品性)にあるのです。
では、商業資本にとって、一番怖いのは何か? 逆説的なようですが、
「本当に女性が働いてしまうこと」であると言えます。
女性が本当の意味で働いて「男性化」すると、女性の商品性・女性の消費者性が
消えてしまう可能性があるのです。
ところで「ウーマノミクス」という言葉を何度かこのブログでも紹介しましたが、
「ウーマノミクス」は決して 実現しません。
ウーマノミクスとは、「女性が社会進出し収入を得ることによって、今まで以上に
女性消費が拡大する」と いう事なのですが、そんな事はあり得ません。
「女性が男性の役割に進出し、そのことによって女性としての役割を更に強める」などと
いうことは不可能です。 おそらく、そんなことは言い出しっぺも知っているでしょう。
では、何故、「ウーマノミクス」などと騒ぐのでしょう?
それは、「ウーマノミクス」という言葉を「打ち上げる」だけで、彼らに莫大な儲けが
転がり込むからです。 打ち上げた「ウーマノミクス」は決して目的地には到着しませんが、
目的地に着く必要など最初からないのです。
これって、何かに似ていないか?と考えて閃きました。
「炎上商法」に似ているのではないか・・・? そう、「女性の時代」とは「壮大な炎上商法」
なのです。 炎上商法は、内容が過激であれば過激であるほど儲かります。
そんな訳で、「女性の時代」もどんどん過激さを増しています。
逆に、炎上商法にとって一番怖いのはなにか? 人々がそれが炎上商法であることに
気づいてしまうことでしょう。
では、そういう「商業主義的女性の時代」に男性が対抗するには、どうすればいいので
しょうか?
ひとつは、フェミニズムと、商業資本を対決に追い込むことです。 フェミニズムと
商業資本は、現在は「なぁなぁ」の仲でやっていますが、本来、相容れないものです。
例えば、「美人コンテスト」に反対するフェミニズムがあります。
一方、美人コンテストに無くなられては困るのが商業資本です。
美人コンテストが無くなってしまうと、女性の商品価値が落ちてしまうからです。
そこで、両者を対決させる。 「女性の時代」陣営内の内部抗争を起こさせるのです。
抗争の結果、両者とも消えてなくなってしまえば、最良の結果であると言えます。
もう一つは、女性から商品価値を奪ってしまうことです。
女性に商品価値があるのは、男性が女性に欲望するからです。
つまり、男性が女性に欲望するのを止めてしまえば、女性の商品価値も無くなり、
「商業主義的女性の時代」は終焉すると予想されます。
男性が女性に欲望するのは本能であり、それを止めるのはとても難しいだろうとは
思いますが、私自身としては、とっとと女性から商品価値を奪ってしまいたい気分です。
男性が女性に欲望するのをやめ、更に一歩進めて、男性に欲望するようにしたら
どうなるでしょう? 今度は、男性に商品価値が生じます。
そうなると、今度は「商業主義的男性の時代」が訪れるかもしれません。
男性が男性であることを商品価値として女性の領域に進出する一方、女性には
商品価値がないので、 女性は男性の領域に進出できず、今度は女性が
苦しむかもしれません。
以上は、勿論、「女に生まれたかった男」の空想でしかありません。
大部分の女性が、フェミニズムがなんと言おうと、オンナを捨てないであろうことと同じで
大部分の男性は、男性であること(つまり、女に欲望すること)を捨てる事はないでしょう。
しかし、女に欲望することをやめない男性は、女性だけがひたすら持て囃される時代が
これからも長く続くことも覚悟するべきだと思います。

2014年12月 4日 (木)

女性は「怒れるマイノリティ」か?

かつて、ネット上で「女性差別だけが取り上げられるのは不公平だ」と愚痴を言ったところ、
「それは、女性たちが怒りの声を上げているのに、男性は上げないからだよ」と言われた
ことがある。
本当に、その人の言うとおりなのだろうか?
もし、そうであるならば、ある意味で、私にとっては救いである。
何故なら、男性が怒りの声を上げれば、男性差別も取り上げられるはずだからである。
しかし、男性がいくら怒っても取り上げられないとしたら・・・?
今回は、そういう話である。

一般にマイノリティというのは、注目を浴びる存在である。
少数民族や、被差別人種、同性愛者などだ。
特に「怒れるマイノリティ」というのは、「正しい人たち」として注目を浴びる傾向がある。
しかし、ここで間違ってはいけないのは、「マイノリティだから注目を浴びる」ということは言えるものの
「注目を浴びるからマイノリティ」とか「注目を浴びないからマジョリティ」とは言えないということだ。
即ち、女性というのは、マイノリティだから興味を持たれるのではなく、元々、「興味を持たれる」という属性を
備えているということだ。(逆に、男性は「興味を持たれない」という属性を備えている。)
女子高生は注目されるが、男子高生は注目されない。
女子大生は注目されるが、男子大生は注目されない。
それと同じ文脈で、「怒れる女性」(フェミニスト)は興味を持たれるが、「怒れる男性」は
興味を持たれない・・・
そんな気がしてならないのだ。
「怒らなくても、注目を浴びる女性」
「いくら怒っても、注目されない男性」・・・
一体、どっちが本当に不幸なのか?
一体、どっちが本当のマイノリティなのか?
それが私の疑問である。

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