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2015年1月

2015年1月31日 (土)

美少年役を演じられるのは、少女だけ?

私は、かねがね、「少女」ばかりが注目され、「少年」が注目されないことに
不満を持っていた。同じように育った筈の男女であっても、「少女」は
興味を持たれる存在であるのに対し、「少年」は「少女」に興味を持ち、
欲情しなければならない存在なのである。
こんなことを書くとナイーブだと思われるだろうが、私は、他人から
興味を持たれ、そして、興味を持たれる自分自身に興味を持ちたかったのだ。
ところが、男性は、自分自身に興味をもつことが許されない。
自分ではなく他者(女)に興味を持たなければいけないのである。
自分の肉体ではなく、女の肉体に興味を持たなければいけない。
そして、ひたすら、女に欲望できれば、立派な男という訳である。

かつて、美少年達が登場するという映画があった。
美少女ばかり注目される事に嫌気が差していた私は「おっ」と
思ったが、すぐにそれは怒りに変わった。
美少年役を務めるのは、少女だというのである。
「美少年役を務められるのは、少女だけです。少年には務められません」
とでも言わんばかりである。
私には、「男性、少年に対する侮辱」だとしか思えなかった。
しかし、一般の男性は、特に何とも思わないらしい。
それどころか、美少年役を演じる少女を賛美しさえするのである。
私には、到底、理解できない。

2015年1月29日 (木)

男性差別を放っておいてはいけない理由

「女性専用車両なんて、自意識過剰女を隔離するのに好都合だから放っておけば良い」
というような意見をインターネット上で見かけることがある。
だが、本当にそれでいいのだろうか?
例えば、名古屋の地下鉄東山線の女性専用車両が春から終日になるそうである。
男性が自分たちに対する差別に無関心でいると、「敵」は、どんどん差別を拡大するのだ。
そして、痴漢とはなんの関係もない商業施設までもが「女性専用車両」の存在を
理由に女性優遇を始める。
だから、男性差別を放っておくべきではないのである。

P.S. 因みに、名古屋地下鉄が女性専用者を終日に拡大するのは、「ラッシュ時間帯以外
でも、痴漢の被害があるから」だそうだが、そんなのは、女性優遇拡大の口実にすぎない
のは明らかである。

2015年1月23日 (金)

男性に人権はない

私がかつて、大学院予備校で憲法を先生と私の一対一で学んだこと、
その先生が女性弱者論者であったことは、以前書いた。
その先生は、現在でも「人権とは成人男性のために存在し、
女性は無視されてきました」というようなことをHP上に書いていらっしゃる。
しかし、私は、むしろ男性にこそ人権がないと考えている。

人権とは多義的な言葉であるが、端的に言えば「人間が人間らしく生きる権利」を
意味する。また、それぞれの人の属性(特に自ら選択できない属性、例えば「男」)
ではなく、人を個人として重視しなければいけない、というような意味合いも
持っている。
(加えて、人権は、人間なら誰しも生まれながらにして持っている権利で、
国益や法律や多数決で奪うことは出来ない、という点が重要である。
それを法規の形で保障しているのが憲法である。
憲法が、最高法規とされているのは、権利(憲法)を義務(法律)よりも
上に置くことによって、人権を侵害する法律が国会を通っても、
これを無効にする為である。)

ところが、現在、政府が推進している「男女共同参画」とは、まさに人(特に男性)を
個人として重視しない政策なのである。
一例として、女性専用車両が「男女共同参画」から生まれたというのは
驚くべき事実である。
例えば、人種・民族共同参画と称して「日本人専用車両」などを作ったら大批判に
さらされることは間違いないだろう。
それが男性差別については許されてしまうということである。

また、「女性専用車両」は人を個人として重視していない。
例えば、私は、痴漢という犯罪について被害者になったことはあっても、
加害者になったことはないのである。(学生時代、痴漢にあった経験がある)
また、男性であっても、女には性的関心がないという人も存在するだろう。
ところが、男性が男性であるというだけで、痴漢の被害者であろうと、女性に興味が
なかろうと、痴漢予備軍として、女性専用車両に乗ってはいけないということに
されてしまうのである。
まさに、人を個人として重視していない(=人権無視)の政策であるといえるだろう。
インターネット上(ツイッターなど)には、女性専用車両に乗った男性に対する女からの
ヘイトスピーチがあふれている。
(まるで、白人専用スペースに入った黒人に対するそれを想起させる)
そのようなヘイトスピーチを生む「男女共同参画」が男性の人権を踏みにじる政策である
のは間違いない。

(2016-8-14 一部改訂)

2015年1月21日 (水)

今日のテレビ番組表を見て思い出したこと

今日のテレビ番組表を見ていたら「警視庁特捜対策室 迷宮捜査の女」という番組が
目に止まった。
(私は、普段はテレビを殆ど見ないので、テレビ番組表も見ない)

私がテレビ番組表の「女」「おんな」「オンナ」攻撃に気づいたのは、中学に入った頃だ。
私が、中学に入った頃に、テレビで2時間ドラマのブームが始まった。
そして、そのタイトルにやたらと入るのが「女」の文字なのだった。
私は、憮然とした。
フェミニストはおそらく言うだろう。「男が女を商品化した結果だ」と。
しかし、私も一応異性愛男性の端くれであるが、「商品化された女性」(例えば、
テレビ番組表に踊る「女」の文字)を見ても、全然嬉しくないのである。
それどころか「女」であることは、とても価値があるのに「男」であることにはまるで
価値がない様に感じられた。
だから「男」であることも価値を持ち得ることを何とか証明しようとした。
そして、私は、異性愛者(ノンケ)であるにも拘らず、男性同性愛(ゲイ)に
興味を持つようになっていった。
男性同性愛の世界では「オトコ」であることが価値を持つように感じたからである。

その話は長いので、いずれ別の機会に書きたいと思う。

「奪う」と「与える」から考える男性差別無視

かつて(多分、私が高校生の頃だったと思う)、朝日新聞の投書欄にこんな意見が
掲載されたことがある。
「女の体を奪うという表現は、女性蔑視である・・・・」
これを見て、私は怒りを覚えた。
なぜなら「女が男に体を与える」という表現も存在し、
私はそれを男性蔑視だと感じていたからである。
では、朝日新聞は、私が「女が男に体を与えるという表現は男性蔑視だ」と
投書すれば、それを掲載しただろうか?
まず、掲載しなかっただろう。(実際にやったわけではないが)

こんな風に、性差別問題となると、女性差別だけが取り上げられ、
男性差別はあたかも存在しないが如く扱われるのである。
仮に、男性差別を取り上げたとしても「一見、男性が差別されているように見えるが、
実は、女性差別の裏返しである(つまり差別されているのは女性である)」的な
主張をすれば高得点になる。
うんざりである。

2015年1月16日 (金)

映画:ゼロ・グラビティ(ネタバレあり)

私は、あまり映画は見ない。(レンタルビデオも含めて。)
だから、映画について、評論できるような立場ではないのだが、
これまで私の見た映画を男女という視点から、いくつか考えてみたい。

まず、比較的最近、レンタルビデオで見た「ゼログラビティ」。
地球上空を宇宙遊泳中に、ロシアの衛星の事故によって、母船を破壊されてしまった
主人公(女性)が地上に生還するまでを描いている。
途中まで、気障ったらしいセリフを吐きながら主人公を助け、
そして、主人公の命を救うために自ら命を投げ出すのが男である。
男が死んだ後、主人公は、いつまでも続く苦難に絶望し、自殺しかけるが
そこに、男の幻が現れ、彼女を励まし、そして、彼女は勇気を得て、
地球に帰還するのである。
(どうでもいいけど、地球に帰還するなり、いきなり泳ぐなよ。宇宙から帰還したら、
本当なら重力(gravity)でしばらくは動けないはずじゃないか?)

この映画は、本当に嫌だった。
「最初は男に助けられるだけだったのに、最後は自らの力で生還する主人公は、
なんて強いのだろうと思いました。女性は素晴らしい」と
書けば模範解答なのだろうが、勿論、私には、そんな事は書けない。
男女平等を推進するなら、男女の役割を入れ替えるべきである。
女は男性を助け、そして、最後は男性を助けるために命を投げ出すべきなのである。
その代わり、いくらでも、気障ったらしいセリフを吐いていいから。

2015年1月12日 (月)

泣く女

1年ほど前だが、私は、駅のホームを走っていて他人の足につまずき、転んだ。
激痛のあまり、私は思わず泣きそうになった。
しかし、結局、泣かなかった。
そして、考えてしまったのである。
いつの間に、私は、泣かないようになったのだろうか?と。
小さい頃、私は、泣き虫だった。
大人や他の子供からしょっちゅう、「泣き虫」と言われていた。

あれは、小学校中学年のころだったろうか。
私は、公園で遊んでいて、腹部を強打した。
そして、泣いた。しかし、誰も助けに来ない。
私は、ひたすら泣き続けた。大人が助けに来てくれるまで。
そう、私が泣いたのは、誰かが助けに来てくれることを期待したからだったのだ。
そして、いつの間にか、泣かなくなったのは、成長して誰も私を助けてくれないことを
知ったからなのである。

そして、腹が立ってくるのだ。「泣く女たち」に。
キセルがバレて、駅務室で「私、悪いことしようと思ってしたんじゃありませーん」と
泣き喚くOL風の女については以前書いた。
私に言わせれば、あれは「私は女だから助けろ。」と言っているのも同然である。
そして、マスコミやマーケティングがひたすらヨイショしているのは、彼女のような女に
思えてならないのだ。
(ついでに言えば、鉄道会社に損害を与えかけたキセル女は、今頃「女性専用車両」に
ドヤ顔で乗っているかもしれない)
私は、断じて許すことが出来ない。

はじめて「女性専用」に反対したころ

私が、大学に入学してからパソコン通信を始め、それに嵌ってしまったことは、
以前書いた。
ところが、パソコン通信を始めてしばらくして、実に不愉快なことが起こった。
私が常連をしていたネットで「女性専用掲示板」の計画が持ち上がったのである。
私は、商業施設における各種の女性優遇に耐え難い思いをしていた。
しかし「どうしようもない」と、諦観を抱いていたのである。
私は、女性のように商業施設の上客ではないし(つまり、女性のような消費者性がない)、
私がいたからといって、商業施設が華やいだり、マスコミで話題になったりするわけでも
ない(つまり、私には商品性がない)からである。
しかし、常連をしているネットでの「女性専用掲示板」設置には、到底、耐えることが
出来なかった。
私は、女性専用掲示板の設置に大反対した。
当時、私は、男性差別に悩んでいることは秘密にしていたから、それについては
何も言わず、とにかく反対した。
結果、なんとか、女性専用掲示板の設置を撤回させることが出来た。
他の男性の常連は、何故、私が女性専用掲示板の設置に反対するのか、
理解出来ないようであった。
しかし、私の方も、彼らを理解出来ない。
何故、自分の書き込めないような掲示板の設置が不愉快でないのかと。

2015年1月10日 (土)

大学院を受験したころ

わたしは、かつて、いくつかの大学院を受験したことがある。
大学院を受験するために、私は、大学院予備校で、先生と私だけの1対1で憲法を学んだ。
しかし、その講義のある回に、先生がショッキングなことを言ったのである。
「ドメスティックバイオレンスとは、強者が弱者に対して行う暴力、即ち、男性が女性に
対して行う暴力のことですね。」
これが、誤りなのは言うまでもないだろう。
この定義では、男性が女性に暴力を加えれば、それは全てDVということに
なってしまう。
言うまでもなく、DVは、男性が女性に対しておこなうものとは限らない。
それどころか、アメリカでは「夫から妻へのDVよりも、妻から夫へのDVの方が多い」と
いう調査すら存在する程である。
(下村満子『アメリカの男たちはいま』参照。
『アメリカの男たちはいま』は、かなり古い本だが、アメリカの男性運動においては、
現在でも、男性に対するDVの世間への周知は、主要な活動の一つのようだ。
アメリカの男性団体のHPで「DVの半分は、妻から夫へのものである」という主張を
見かけたことがある。)
私は、先生の言葉を聞いて、ショックを受け、震えてしまった。
そして、涙が出そうになった。
先生も、私の雰囲気がおかしいのを感じ取ったようで(何しろ、聞いているのは私一人
なので)、「途中からなんか変な雰囲気になりましたが・・・」と言って、講義を終わった。
お陰で、私は、一時期、憲法の考え方そのものを拒絶しそうになってしまった。
しかし、そのうち、こう考えるようになったのである。
「憲法の考え方は、男性差別にも応用できるのではないか?」と。
そして、それからは「男性差別に適用すると、どうなるだろう?」と考えながら講義を
聞くようになった。
(例えば、私は大学生の頃に前述の下村満子の本を読んで、
「アメリカに於いて男性が犯罪を犯した場合と女性が犯罪を犯した場合では、
男性の方が罪が重くなり、女性のほうが罪が軽くなる」という知識を持っていた。
それに憲法の講義で得た知識を加えると「法の下の平等に反する男性差別」と
なるわけである。)
その後も、先生は、女性は弱者論をしばしば、ぶったが、何とかこらえた。

そして、大学院入試の季節がやってきた。
その中で、憲法の問題で、ずばり、男女差別について出題してきた大学院があった
のである。(実は、第一志望の国立大学院)
女性差別について書けば、無難なのは言うまでもない。
しかし、そこで媚びることは、死んでも出来なかった。
私は、男性差別について、講義を聞きながら考えていたことを書きまくった。
答案用紙の表だけでは書ききれず、裏にまで書いてしまった。
結果、私は、その大学院の一次に合格した。
試験は、英語と憲法で、英語はとてつもなく不出来だったので、憲法は高得点を
とったものと思われる。
しかし、2次で落ちてしまったのである。1次合格者のほとんどが2次に合格するにも
拘らずである。
2次試験は、研究計画書と面接なのだが、面接は明らかに最初から最後まで
「あなたは落とします」という雰囲気だったから、面接の前に不合格は
決まっていたものと思われる。
だとすると、研究計画書がまずかったのだろうか?
今考えると、研究計画書は、かなり的はずれなことを書いてしまった。
しかし、全く同じ研究計画書で、他の大学院には合格したのである。
だとすると、憲法で男性差別について書いたのがまずかったという可能性が浮かんでくる。
「書いてあることは、憲法学的に正しいので、高得点を付けざるを得ないが、
男性差別について書くような奴は入学させたくないので、2次で落とす」という訳である。
そうではないと信じたいが、可能性は否定出来ないと今でも思っている。

憲法を教えてもらった先生には、大学院受験報告書という形で「男女差別について
出題されたので、男性差別について書きました」と書いて、
やんわり、私が、男性差別反対の立場であることを伝えておいた。
その先生は、私に教えたのを最後に大学院予備校をやめた。
大学の常勤講師に採用されたからである。(今では、教授になっている)
大学の常勤講師採用は、極めて狭き門である。
それを通ったのはめでたいことだが、もし、大学が「男女共同参画の立場から女性を
優先的に採用します」というスタンスをとった場合、先生は、今でも、大学院予備校講師
という不安定な立場であった可能性がある。
もし、そうなっても、先生はそれを受け入れられるのだろうか?
と考えずにはいられない。
(2016/08/05 一部修正、追加)

2015年1月 7日 (水)

「働く女性」と「オヤジギャル」と「ウーマノミクス」

「働く女性」、「オヤジギャル」、「ウーマノミクス」・・・
これらの言葉の共通点に気づく人は多いだろう。
つまり、オンナ(「女性」、「ギャル」、「ウーマン」)という商品に、
それとは正反対の男性要素(「働く」、「オヤジ」、「エコノミクス」)を付けて
新奇性(物珍しさ)を高めているという点である。
商品は、一般に新奇性が高ければ高いほど、商品価値が高い。
「オヤジギャル」などは、あまりにも見え見えな感じだが、
このくさい言葉が世間(というより、マスコミ)を席巻するのをみて、うんざりしてしまった。
何度も書いていることだが、女性に商品価値を与え続ける限り、
今後も、この手の言葉をギョーカイが、流行らせようとするのは間違いないだろう。

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