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2015年2月

2015年2月28日 (土)

「性差別に反対する人は男性であっても女主義者なのです」という性差別思想

前の記事で、私たちとフェミニストが論戦したことがあったことを書いた。
その最中に、私にメールを送ってきた相手方フェミニストがいた。
曰く、「あなたが、男性であることに本当に悩み、性差別に反対していることは
よく分かった。性差別に反対する人は、男性であってもフェミニストなのです。
他に表現しようがない。」
???なんのこっちゃ?
意味不明である。
フェミニズムのフェミが「女」を意味するのは言うまでもない。
「性差別に反対する人は、男性であっても女主義者なのです」???
ということは、性差別に賛成する人は女であっても「男主義者」であるとでも
言うのだろうか?
そういう考え方自体が、性差別の最たるものではないか。
フェミニズムが性差別思想である事が如実に現れたメールであったと言えるだろう。

私は黒人であり、フェミニストは白人である。

時々、男女差別と人種差別を同一視する人がいる。
そして、大概は、女性と黒人を同じと見做すのである。
(もし、女性=黒人だとすれば、フェミニストを攻撃している私は
黒人を攻撃する白人ということになってしまうが、それはとんでもない
誤解である。)
過去にも、私たちとフェミニストが論争しているところに
「女性差別と黒人差別は類似である」と言う人が現れたので、
男性陣営の人が「むしろ、男性の方が黒人である」
と言って、黒人と男性の類似点を挙げたところ、
「あなたは、黒人と男性の表面的な類似点を上げているに過ぎない。
私は、黒人差別と女性差別が同じ性格だと言っているのであって、
表面的な黒人と男性の類似点など意味が無い。例えば、女性に対するDVが
男性に対するDVをはるかに上回っているのは事実である。
もし、男性に対するDVが女性に対するDVを上回ったなら、女性差別と
黒人差別は違うと認めましょう」と自信満々で言うので、
私が「女性に対するDVよりも男性に対するDVの方が多い」という資料を
示したら、黙ってしまったという事があった。

実際、私は、自分(必ずしも男性全員ではない)=黒人、フェミニスト(必ずしも女性全員では
ない)=白人だと考えている。
ここでいう黒人とは、自分の属性(私の場合、男性であること)をスティグマだと感じ、
その自分の属性を肯定的に捉え直そうと一生懸命になっている人を指す。
そして、それの邪魔をするのが白人である。
私は、男性である自分を何とか肯定しようと努力してきた。
ところが、今の世の中に流布している男性像は、私が男性である自分を
肯定できるどころか、吐き気を催すものばかりなのである。
そして、その吐き気を催す男性像の発生源の一つがフェミニズムである。
フェミニストは、「性差別を無くす」と称して差別的な男性像を垂れ流しているではないか。
私=黒人、フェミニスト=白人という位置づけは全く間違っていないと確信している。

2015年2月25日 (水)

映画:タワーリング・インフェルノ(ねたばれかも?)

「タワーリング・インフェルノ」は、1970年代のアメリカ映画である。
私が小学校高学年の頃、数回テレビ放映され、私は、その放映を楽しみにしていた。
しかし、この映画、今となっては、非常にむかつく映画なのだ。

映画は、超高層ビルの完成パーティーで起きるビル火災を描いている。
超高層ビルは、コスト低減の為に設計からランクを落としたケーブルを使用し、
その結果、ビル完成パーティーの演出としてなされたビルの全照明点灯という負荷に
耐えられず火災が起きてしまうのだ。
その火災に立ち向かうのは、ビルの設計者である建築家(ポール・ニューマン)と
消防隊員の隊長(スティーブ・マックイン)という二人の主人公である。
この映画の問題は、パーティーに出席した人たちのうち、女性だけ先に救出されて
しまう、という点にある。
結果、最後の修羅場に取り残されるのは男性たちだけなのである。
(どういう修羅場なのか、どうやって火災を鎮火するのかは、実際に映画を見て
いただきたい)

今、この映画をリメークするとしたら、2人の主人公のうち、一人は女性になるのでは
ないだろうか。(建築家あたりが女性になりそうだ。)
そして、最後の修羅場に取り残されるのは、相変わらず男性たち(まぁ、主人公の女性も
残るかもしれないが)
だということは十分考えられる。
前に書いた「ゼロ・グラビティ」の事を考えて欲しい。
「タワーリング・インフェルノ」において、女性は、先に救助されていたが、同時に、
ただの脇役であった。
しかし、「ゼロ・グラビティ」においては、女性が主役になっている。
では、男性が、先に助かるという設定になったのかというと、相変わらず、男性が
女性のために死ぬという設定なのである。
そして、そういう残酷な設定を我々は「女性が強くなった時代」と称している。
本当に、女性が強いのならば、女性が男性の為に命を差し出すというストーリーに
するべきであろう。

2015年2月15日 (日)

「女性に迎合することを商売として富と名声を築きつつある一握りの人々」

以前、引用した渡辺恒夫教授の文章を再掲する。

「『男性社会』の真の主人公が、もはや男性ではなく女性である、
という逆説的な事態が、このシンドロームに輪をかけていよう。
現代最強のイデオロギーとしての消費のイデオロギー(ボードリヤール)が、
仕えるべき主人として選んだのは、男性ではなく女性だったのだ。
以後、男性社会は、従来の、女性を抑圧するという戦法を捨て、女性におもねり迎合する
という、新たなる戦法を採用することによって延命策をはかることとなった。
女性は新戦法の術中にはまり、男性社会と女性の間には一種の共犯関係が形成された。
そして--代わって男性社会の被抑圧者の訳を引き受けることとなったのは、男性自らの
方なのである。(中略)今や女性よりも男性の側に(女性に迎合することを商売として
富と名声を築きつつある一握りの人々は除くとして)、性役割固定文明への最後の一撃を
加えなければならない強い動機が、潜在的顕在的に生じつつあるのだ。」

以前の文章にも書いたとおり、私はこの「女性に迎合することを商売として富と名声を
築きつつある一握りの人々」に対する憎しみが強いのだが、では、どういう人達が
それに該当するのだろうか?

バブルの頃、私はテレビで、大学生の企画集団を特集しているのを見た。
その企画集団が、店をオープンするという経営者のもとへ行く。
その経営者は言うのだった。「若い女性が集まる店を企画してください」と。
しかし、その経営者はというと、中年の男性なのだ。
つまり、自分が客として来ないような店を希望しているわけである。
そのような人が典型的な「女性に迎合することを商売として富と名声を
築きつつある一握りの人」であると言えるだろう。
「若い女性が集まる」とは即ち「流行」を意味する。
若い女性が集まれば、マスメディアも話題にする。
きっと儲かるのだろう。
しかし、私は考えるのだ。「儲けてどうするのだろう?」と。
彼が儲けた金を使おうとしても、彼の入りたいと思った店が「女性専用」とか
「女性優遇」を打ち出したら?
彼のやっていることはそういう自滅行為なのである。
目先の利益だけ追った結果、最終的に自分が損をしかねないのである。
ただし、世の中には、金儲け自体が目的となっていて、使うことまで考えない男性が
いるらしい。
私は「金は使ってなんぼ」だと考えているので、理解できないが。
(ちなみに「男(の欲望)は金と女」という言葉があるが、
私はこの言葉が大嫌いである。)

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