« 「女性に迎合することを商売として富と名声を築きつつある一握りの人々」 | トップページ | 私は黒人であり、フェミニストは白人である。 »

2015年2月25日 (水)

映画:タワーリング・インフェルノ(ねたばれかも?)

「タワーリング・インフェルノ」は、1970年代のアメリカ映画である。
私が小学校高学年の頃、数回テレビ放映され、私は、その放映を楽しみにしていた。
しかし、この映画、今となっては、非常にむかつく映画なのだ。

映画は、超高層ビルの完成パーティーで起きるビル火災を描いている。
超高層ビルは、コスト低減の為に設計からランクを落としたケーブルを使用し、
その結果、ビル完成パーティーの演出としてなされたビルの全照明点灯という負荷に
耐えられず火災が起きてしまうのだ。
その火災に立ち向かうのは、ビルの設計者である建築家(ポール・ニューマン)と
消防隊員の隊長(スティーブ・マックイン)という二人の主人公である。
この映画の問題は、パーティーに出席した人たちのうち、女性だけ先に救出されて
しまう、という点にある。
結果、最後の修羅場に取り残されるのは男性たちだけなのである。
(どういう修羅場なのか、どうやって火災を鎮火するのかは、実際に映画を見て
いただきたい)

今、この映画をリメークするとしたら、2人の主人公のうち、一人は女性になるのでは
ないだろうか。(建築家あたりが女性になりそうだ。)
そして、最後の修羅場に取り残されるのは、相変わらず男性たち(まぁ、主人公の女性も
残るかもしれないが)
だということは十分考えられる。
前に書いた「ゼロ・グラビティ」の事を考えて欲しい。
「タワーリング・インフェルノ」において、女性は、先に救助されていたが、同時に、
ただの脇役であった。
しかし、「ゼロ・グラビティ」においては、女性が主役になっている。
では、男性が、先に助かるという設定になったのかというと、相変わらず、男性が
女性のために死ぬという設定なのである。
そして、そういう残酷な設定を我々は「女性が強くなった時代」と称している。
本当に、女性が強いのならば、女性が男性の為に命を差し出すというストーリーに
するべきであろう。

« 「女性に迎合することを商売として富と名声を築きつつある一握りの人々」 | トップページ | 私は黒人であり、フェミニストは白人である。 »

映画・小説・音楽・コミック」カテゴリの記事

最近のコメント

リンク集

  • Nikkoh の 徒然日記
    男性同性愛者、Nikkohさんのブログです。マスキュリズムについての記事が大変参考になります。「手弱男」として、弱者男性の問題についても関心をお持ちです。
無料ブログはココログ