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2015年8月

2015年8月30日 (日)

インテリ男性はフェミニズムを支持してナンボである(というアホらしい「常識」について)

比較的最近邦訳されたメンズリブ(正確には、マスキュリズム)書籍として
『男性権力の神話』(ワレン・ファレル著、久米泰介訳、作品社、2014)がある。
著者のワレン・ファレル博士は、非常なインテリなのだが、この本を紹介した
女性ライターの記事にこんなようなことが書いてあった。
「彼のようなインテリ男性でも男性開放を唱えるのである」。
この記述の前提には、「男性開放などインテリ男性の唱えることではない」と
いう意識があるだろう。

では、インテリ男性が支持するべきはなにか?
勿論、フェミニズムである。
逆に言って、フェミニズムを支持できない男性は、インテリとして認定されない恐れがある。
そこで、一生懸命、フェミニズムに媚を売る「自称」インテリ男性が続出することになる。

しかし、フェミニズムを支持したところで、彼らの目的はインテリ「男性」として認定を
受けることである事を忘れてはならないだろう。
彼らは、ひょっとしたら、こういうかも知れない。
「男たちは反省し、女性的価値を認めなければなりません」と。
しかし、彼らが本当は反省もしていなければ、女性的価値も認めていない。
例えば、本当に女性的価値を認めるならば、男性(の領域)に憧れる女性を
認めるのと同じように女性(の領域)に憧れる男性の存在も認めるはずなのである。
ところが、実際に女性(の領域)に憧れる男性を目の当たりにした時の彼らの
典型的反応は
「そんな馬鹿な奴いるはずない」
というものなのである。
その反応の裏には「女(の所有する二流の領域)に憧れる男などいるはずがない」と
いう意識があるだろう。
要するに、彼らは本当は女性的価値など認めていないということだ。
バカバカしいにも程があるとはこのことだろう。

2015年8月20日 (木)

合理性のない差別を推進する政府の男女共同参画は違憲である

男女共同参画法は、以下のように定めている。
(男女の人権の尊重)
第三条 男女共同参画社会の形成は、男女の個人としての尊厳が重んぜられること、
男女が性別による差別的取扱いを受けないこと、男女が個人として能力を発揮する
機会が確保されることその他の男女の人権が尊重されることを旨として、
行われなければならない。

この規定の背景には憲法の定めがある。

第十三条  すべて国民は、個人として尊重される。
生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、
立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

第十四条  すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分
又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

ところが、国交省の推進する女性専用車両がこの男女共同参画から生まれているというのだから
驚きである。
女性専用車両は「男女の個人としての尊厳」を重んじていると言えるだろうか。
勿論、否である。男性を「男だから」というそれだけの理由で排除する女性専用車両は
男性の個人としての尊厳を全く無視している。
女性専用車両は、男女共同参画法の禁じる「性別による差別的取扱い」なのである。

こういう事を書くと「憲法は不合理な差別は禁止しているが、合理的な不平等は認容して
いる」という反論をする人がいるかも知れない。
しかし、女性専用車両は「合理的な不平等」ではない。
例えば、男性の中には女性に全く性的関心がないという人がいる。
そういう男性まで「男だから」という理由で排除してしまう女性専用車両に
憲法の認める合理性などない。
「女性専用車両を認めない」或いは「女性専用車両に乗りたい」という男性は
「自分は女性には性的関心がない」とか、「自分は女性に良からぬことは
絶対にしない」事を証明するべきだ、と考える人がいるならば、
それは本末転倒である。
特定の車両(例えば「女性専用車両」と称している車両)に特定の男性を
乗せた時に、その特定の男性が必ず良からぬこと(例えば女性に対する痴漢行為)を
するのだ、という事を証明できた時のみその特定の男性(だけ)を乗せない事が出来る、
と解するのが人権を尊重する発想のはずである。
ところが、実際には男性が男であるというだけで乗せないというのだから、
人権無視も甚だしいと言わなければならない。
それなのに、人権派と称する人たちが、往々にして、女性専用車両に疑問の声を上げる
どころか、これを擁護してしまうのだからびっくりである。
私が「男性には人権がない」と主張する所以である。

そもそも、憲法は確かに「合理的不平等」を容認しているが、「合理的不平等を積極的に
どんどん作りましょう」という趣旨ではない。飽くまでも、「差別をしてはいけない」と
いうのが第一義であって、もし合理的不平等を消極的に認めるとしても、その不平等は
今現在も本当に合理的なのかどうか、常に検討を続けなければならない筈なのである。
だから、憲法や男女共同参画法に基づく政府の男女共同参画政策も
決して「合理的不平等をどんどん作ります」という内容ではあってはならない。。
ところが、実際に政府の進めている男女共同参画を見てみると、さぁ、どんどん
女性優遇(合理的不平等ではなく、実際には不合理な差別なのは上で検討したとおりで
ある)をしましょう、という内容になっているのだから、ただただ、驚き、呆れてしまう
のである。

2015年8月 9日 (日)

女性に対するステレオタイプだけが問題にされて、男性に対するそれは放置される(フジ三太郎を例に)

かつて、朝日新聞に「フジ三太郎」という4コマ漫画が掲載されていた。
まだ若かった私にとって、この漫画の描く主人公?(フジ三太郎)や
その男性上司に代表される男性像は不愉快そのものだった。
若い女性に目がなく、女性の上司にはタジタジにされる主人公やその男性上司・・・

そのフジ三太郎が連載終了してかなり経った頃、朝日新聞にフジ三太郎に於ける
女性像についての「言い訳」記事が掲載された。
「フジ三太郎で描かれた女性像は一見ステレオタイプに見えたかもしれないが、
実はフジ三太郎は、進んだ女性像も描いていて・・・」云々という内容だったと思う。
私は、怒りを感じた。
フジ三太郎は、ステレオタイプな男性像をこれでもかとばかりに描いていたではないか。
女性像についてだけ言い訳するということは、言外に、「男性像には何の問題も
ありませんでした」と言っているも同然である。
例えば、主人公が若い女性を見てニヤけているコマがあるとして、若い女性の描き方
(あたかも若い女性が男の性欲の対象となって当然のように描いている)には問題が
あるが、男性像の描き方(男は若い女性を見ると、当然にいやらしい目つきで見る)には
何の問題もないという訳だ。

当時は、インターネットどころか、パソコン通信さえない時代である。
一般の民衆に自分の意見を多数に向けて発信する手段は殆どなかった。
私も、朝日新聞の一方的な男性観に異論を表明することが出来ず、ストレスが

2015年8月 5日 (水)

「女は持って生まれた美醜で人生が決まるが、男は頑張れば何にでもなれる」か?

15年ほど前、フェミニストのグループと論争をしたことがある。
その中で、あるフェミニストがこんなような事を言った。
「女は、持って生まれた美醜によって人生が決まるのに、
男は、頑張れば何にでもなれる・・・」
私は、彼女のこの発言は、嘘偽りのない彼女の心の叫びであると
感じたので、むげに否定することはしなかった。
しかし、こう感じたのも事実である。
「男が頑張れば何にでもなれるのだとしたら、女は頑張れれば
いくらでも美人になれるんではないの?」と。
要するに、男だって、持って生まれた才能というものによって人生を
左右され、頑張れば何にでもなれるという訳ではないという事である。
男の領域の方が広くて、様々な可能性を探求できるというのは、事実ではあろう。
しかし、女が専有する領域が(例え、男性より狭いとしても)、人間の
根本に関わる中核的な領域だとすれば、女の方が損であるとは言えないのである。
しかも、現代において、男は、自分の領域を女に開放することを強いられる。
(開放しないと性差別者扱いされる)
逆に、女の領域は、女の聖域のままだとしたら、不公平感を感じる男が現れるのは
当然である。

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    男性同性愛者、Nikkohさんのブログです。マスキュリズムについての記事が大変参考になります。「手弱男」として、弱者男性の問題についても関心をお持ちです。
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