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2016年1月

2016年1月26日 (火)

「儲かれば正義」の人たち

最近、「ニセ団塊ジュニア」というマーケティング用語を知って、呆れた。
(調べたら、結構前からある言葉らしい)
まず、マーケティング業界は、「ホンモノ」という言葉を好む。
しかし、彼らの語る「ホンモノ」ほど、ニセモノ臭のするものはない。
取り敢えず、何か儲かりそうなものを見つければそれを「ホンモノ」と
形容すると考えてよい。
だから、しょっちゅう「ホンモノ」が変わる。
(言うまでもないが、本物のホンモノは、コロコロ変わらない)
マーケティング雑誌で「今度こそホンモノの○○(←儲かりそうなキーワードが入る)の時代だ」と
いうような文句を見るたびに「こないだまで言ってたホンモノはどこへ行っちゃったの?」と
問いかけたくなったものである。(過去形です。近年はマーケティング雑誌とか見ないので)
「ニセ」は言うまでもなく「ホンモノ」の反対であり、彼らにとって否定的な意味を持っている。

「団塊ジュニア」とは、バブル時代に盛んに持て囃されたマーケティング用語である。
団塊とは、終戦後のベビーブーム世代を指し、ジュニアとは子供を指す。
団塊ジュニアとは、つまり、「戦後ベビーブームで生まれた世代の子供」という意味である。
バブルの頃、私の読んでいたマーケティング雑誌は「女性」と「団塊ジュニア」の話で終始していた。

ところが、「ニセ団塊ジュニア」という言葉の登場である。
かつて「団塊ジュニア」と呼んで持て囃した人々に、今度は「ニセ団塊ジュニア」という
蔑称(?)を付けたのである。
「団塊ジュニア」と持て囃した人達は、実際には団塊ジュニアではなかったという。
(本当の団塊ジュニアより、年上の世代であったとしている)
「ニセ団塊ジュニア」という言葉の登場は、つまり団塊ジュニアと呼ばれた世代が
儲からない世代になったということである。
しかし、彼らは、彼らが「団塊ジュニア」と呼んだ世代が実は団塊世代の子供では
ないことに今頃、気づいたのだろうか?
いや、「団塊ジュニア」という言葉を盛んに使っていた頃から、そんなことは分かっていた
はずである。
分かっていて、「団塊ジュニア」という言葉を使い続けた。
なぜなら、儲かる言葉だったからである。彼らにとっては、儲かれば「ホンモノ」なのだ。
以前も書いたが、「儲かれば正義」、「儲かれば、嘘も真」の人達なのである。

80年代末期(バブルが極まった頃)に彼らが好んだ言葉に「ゴールデンナインティーズ」というものがあった。
「黄金の90年代」という意味で、要するに「バラ色の未来が待っている」ということである。
しかし、実際の90年代は「ゴールデン」どころか「ブラックナインティーズ」だった。
では、「ゴールデンナインティーズ」と連呼したのに、実際には「ブラックナインディーズ」だった事で
彼らは損害を被っただろうか?
実は、何も損をしていない。
「ゴールデンナインティーズ」という言葉は、90年代に儲ける為のキーワードではなく、
80年代末期のバブルの極まった日本でこの言葉を使えば儲かる、というキーワードだったのである。
そして、彼らはこの言葉で大儲けした。
つまり、ちゃんと目的は達成したのである。
だから、実際の90年代がゴールデンだろうが、ブラックだろうが問題はないのだ。
(勿論、90年代にも好景気が続けば、それに越したことはないだろうが、
もし、そうなった場合でも、90年代に最早「ゴールデンナインティーズ」という言葉は
使わないだろう。90年代には、既に「ゴールデンナインティーズ」という言葉は
商品として陳腐化しているからだ)

そして、彼らに手っ取り早く、確実に儲けをもたらしてくれるのが「女性」という存在である。
儲かれば正義、すなわち、「女性が正義」なのだ。
例えば、かつて彼らは「働く女性」という言葉を連呼していた。
いつか、「働く女性」という言葉が儲からない言葉になった時、彼らは
平然とこう言い出すだろう。
「働く女性っていうキーワードが持て囃されたことがあったけど、
あれって、ニセ働く女性だったよね」と。
(2016/03/22 一部修正・追加)

2016年1月21日 (木)

是非、車内広告に半裸の男性を!

時々、電車内などでの肌を露わにした女性を使った広告への嫌悪を表明する
フェミニストがいる。
その感覚は私としても分からない訳ではない。
だが決まって彼女たちがする「男性だって、電車の広告が半裸の男性だったら
嫌でしょう?」という問いかけにはこう答える。
「いいえ、嫌ではありません」と。

半裸の女性が広告になるのは、女性の裸が美しくエロチックだからである。
(勿論、特に男性誌の広告おいては男性の性欲を刺激する目的もあるだろう。)
私は、自分の肉体に美しくエロチックな存在であって欲しいから、
電車内の半裸の男性の広告は大歓迎である。

また、今日、都会の主役は女性(特に若い女性)で、私はそのことに不快感を
持っているのだが、都会の主役が若い女性であるということと、
電車内の広告に肌を露わにした若い女性があしらわれることの間には
深いつながりがある。
もし、電車内の広告に半裸の若い男性が当たり前に使われる時代になれば
きっと、都会の主役は若い男性になるだろう。
都会は、若い男性が魅力的な自分を見せびらかす為の舞台になるだろう。
そして、商業施設は、若い男性が自分を飾るための衣服やアクセサリーを買うための
場所になり、商業施設の経営者は、いかに若い男性を集客するかに血眼になるので
ある。

どこに嫌がる理由がある?
むしろ大歓迎である。

2016年1月18日 (月)

フェミニズムは女性指導者を増やせという要求をやめて、指導者がいない社会を作る運動をするべきである。

フェミニストに「戦争へ男ばかりがいかなければならないのは男性差別だ」と
いうと、こういう答えが帰ってくるだろう。
「戦争は男が起こしている」
或いは、
「戦争が悪いのだから、女を戦争に送るというのではなく、戦争を
無くすという方向で考えるべきだ」
どちらも、詭弁なのだが、今回は、後者について。
戦争は確かに悪いものだが、男女平等の観点からかんがえれば、
まず男女平等に戦争に行くようにして、それから、男女共通の課題として
戦争を無くすことを考えるべきである。
ところが、彼女たちの「戦争が悪い」は、男性差別を糊塗するための屁理屈でしかない。
一体、いつのことだか分からない戦争がなくなる時まで、男だけが戦場に行き続ける
羽目になり、しかも、彼女たちは戦争を無くすために何かするのかというと、
何もしないのである。(するとすれば、「戦争で如何に女性が酷い目に合うか」という
女性差別糾弾だけである。)

そこで、私も提案したい。
「フェミニズムは、指導者(権力者)の女性を増やせという要求ではなく、
指導者(権力者)がいない世の中を目指す運動をしろ」と。
本来、権力者などおらず、皆平等のほうが理想的なはずだからである。
(少なくとも、左翼思想においては)
ただし、指導者(権力者)がいない世の中になるまでは、男性が指導者を独占するし、
権力者を不要にするために、男性が何かをするかというと何もしない。
この理屈で何の問題もない筈だ。
彼女たちの理屈をひっくり返しただけなのだから。

P.S. そうそう、「戦争へ男ばかりが行かなければならないのは男性差別だ」という
私の抗議に「戦場も、そうでないところも危険なのは同じなのです」という訳のわからない
返答をよこしたフェミニストもいたのを思い出した。
「危険性が同じなら、戦場へ行けばいい」と言ったら、黙ってしまったが。

メイル・フェミニズム

1980年代終わり頃、私は、やっと私の考えに沿う本を見つけた。
『アメリカの男たちはいま』下村満子、朝日新聞社、1982
『脱男性の時代』渡辺恒夫、勁草書房、1986
である。
それまで、世界がよってたかって、自分を否定しようとしていると
感じていた私にとって、それは大きな驚き、そして喜びだった。
1991年には、アメリカの男性団体NCFMの本の抄訳版である
『正しいオトコのやり方』 下村満子訳、学陽書房、1991
が出版され、私は「やっと、いい方向の風が吹き始めた」と思った。

そして、90年代中頃から日本に登場してきたのが「男性学」「メンズリブ」と自称する
一連の本であった。
当初、私は、当然期待した。
しかしやがて、それは、失望へ、怒りへと変わっていった。
自称「男性学」「メンズリブ」の本を読んでも、ちっとも、心に響かない。
それどころか、不愉快な違和感が湧いてくるのである。
その不愉快さはフェミニズムの本を読んだ時のそれにそっくりだった。
そう、自称「男性学」「メンズリブ」とは、実は、フェミニズムの一派だったのである。
「男性よ、女性に対する加害者であることをやめよう、そうすれば男性は開放される」
というような内容で、男性を加害者、女性を被害者と位置づけている。
男性=加害者、女性=被害者と位置づけるのは、例え「メンズリブ」と自称していても、
フェミニズムの一種と考えるのが妥当である。
(この手のフェミニズムをメイル・フェミニズムという。)

その後、フェミニストと論争した時、そのうちの一人のフェミニストが私にこう言った。
「私は、伊藤公雄(メイル・フェミニズム本の著者)を読んでいるので、
あなたを理解できると思います」
はぁぁぁ?伊藤公雄を読んで私を理解できるわけ無いではないか。
恐らく、彼女は、さぞ楽しい気分で伊藤公雄の「メンズリブ本」を読めたことだろう。
当然である。
実際には、それは「フェミニズム本」なのだから。

2016年1月14日 (木)

フェミニズムの「大きな嘘」

もう一つ、書いてしまおう。
女性にひたすら理解を示す男性を見て感じるのは、一見寛容な態度の裏に
潜む傲慢さである。
例えるならば、ペットの犬がどんな悪さをしてもニコニコして許す飼い主
とでもいうのだろうか。
戦前的価値観においては、ペットを厳しく律するのが良い飼い主だったが、
戦後的価値観では、ペットが何をしても怒らないのが、良い飼い主である。
彼らは「戦後的良い飼い主」を演じているのである。
(勿論、私自身は、「男=飼い主、女=ペット」だとは考えていない。)
そして、それに付け入るのがフェミニズムである。
例えるならば、フェミニズムは、「男=飼い主、女=ペットであることに異議を申し立てる」
と称しつつ、実際に男に要求する事は、「良い飼い主としてペットの抗議を寛容に受け
入れろ」
ということなのである。
私は、そこに「大きな嘘」を感じている。
「男=飼い主、女=ペット」を否定する思想が、男性に対して「良い飼い主」であることを
要求する事ほど、矛盾していることはない筈だ。

2016年1月13日 (水)

「指導的立場の3割を女性に」のおかしさ

政府もさすがに「指導的立場の女性を数年中に3割に」という無理な目標は
引っ込めたらしいが、返す返すもおかしな目標である。
「指導的立場の人のうち、女性が3割ということは、残り7割は男性だから、
まだまだ男社会だ」的な反論が予想されるが、そういう問題では無いのだ。

指導的立場に男性が多いのは事実だが、社会の底辺で喘いでいたり、辛い仕事、
危ない仕事を引き受けているのも男性なのである。
女性は、男性のおいしいところの3割だけ持って行って、「不味い」方の3割は、
引き受けなくてもいいのだろうか。
また、女性にも美味しいところがある(勿論、不味いところもある)のだが
そのおいしいところの3割を男性に渡さなくていいのだろうか。

女性が一方的に男性の美味しいところを奪って行くことを、果たして
正しい「男女平等」と言えるのだろうか?

「指導的立場の人のうち、女性が3割ということは、残り7割は男性だから、
まだまだ男社会だ」というような「進歩的」見解を述べる人達の頭の中が
一体どうなっているのか、覗いてみたい気分である。

2016年1月 3日 (日)

昔、私を悲しませた記事

かなり以前(バブルの頃)、新聞やマーケティング雑誌で読んで、私を悲しませ、
怒らせたことを、幾つか書いてみようと思う。

男性向け衣料品売り場も、女性が顧客である。
(夫の服を買うのは妻だから)

商業施設には必ず本屋が必要である。何故なら、妻や恋人とショッピングに来た男性が
過ごせる場所は本屋くらいしかないからだ。
  (つまり、本屋以外の場所は全て女性がターゲットということだ。因みに、本屋にしても、
男性だけがターゲットでないのは言うまでもない)

・(新聞でコラムニストが書いていたこと)
昔はデパートの1階には、必ず、男性向けのネクタイ売り場、帽子売り場があったものだが
それらは消えて、女性向け商品ばかりになってしまった。
(書いているコラムニストは、嘆いてはいるが「時代の流れだから仕方ない」調で
怒る様子はなかった)

何回か書いているが、商業施設は、昔から女性がターゲットだった。
男は仕事(生産)、女は家事(消費)という役割分担だったからだ。
(ついでにいえば、「女が美」で「男が美を鑑賞する者」という役割分担もあった)
その役割分担が見直されなければならない時代にあって、
「女性が仕事に進出するので、今後はますます女性の消費が伸びます」
というマーケティング雑誌の論調ほど、私を怒らせたものはない。
「女は仕事に使えない」と「男をターゲットにしても儲からない」はコインの裏表で
ある。コインの裏を裏のままで表をひっくり返すことは決して出来ないであろう。
では、なぜ彼らは、ありえないことを平然と書くのだろうか。
それは彼らが「売れれば正義」「売れさえすれば、嘘も真」の人達だからである。
そして、「オンナ」は非常に売れるので、「オンナ=正義」となるのである。
(その辺りについては、そのうち、別の記事で書こうと思う)→書きました。

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