« 2017年7月 | トップページ | 2017年9月 »

2017年8月

2017年8月25日 (金)

日本の自称「男性学」はフェミニズムの傀儡である。

ジャーナリストの下村満子氏が、1980年代前半から90年代始め頃にかけて、
アメリカにおける男性運動についての本を書いている。
その下村氏の本の中で、私が1980年代末頃に図書館で出会い、
大きな影響を受けたのが、『アメリカの男たちはいま』(朝日新聞社、1982)である。
この本の中で、下村氏はアメリカに於いてメンズリブを主張する人たちを4つに
分類している。

--引用--
第一は、「離婚した父親たち」の運動。
第二は、フレッドに代表されるような「男の開放」を父親の問題に限定せず、
もっと根本的な「男の在り方」の問題までつきつめようとするグループ。
第三は、メール・フェミニスト(女性開放を支援する男)とよばれる人びとで、
「女性たちがいうとおり、男は長い間、女性の権利を抑えつけてきた。だから、
男性開放とは、そうした過去への贖罪として、女性運動を支援することにある」と
考えている男たち。
第四は、その反対で、「女は家庭に帰れ。男は権威と力を取り戻せ!」と叫ぶ
男権主義者たち、である。
--引用終わり--

「アメリカの男たちはいま」は、この4つのうちの一(離婚した父親の権利運動)と
二(「男の開放」を「男の在り方」の問題まで突き詰めるグループ)に焦点を絞る。
(加えて、急増するアメリカの男性同性愛者事情についても、かなりのページを
割いている)
四(保守的男権主義者)については、批判的に少し触れているが、
三の「メール・フェミニスト」については、全く触れていない。
恐らく著者の下村満子は、「アメリカの男性運動をテーマにした本」の中で
「メール・フェミニスト」に触れる意味はないと考えたのであろう。
(フェミニストの一流派としてなら、考察する意味を見出すかもしれないが)

では、1990年代中頃から日本において「メンズリブ」とか「男性学」と自称し、
活動している伊藤公雄を始めとする人達は、上の分類では、どれに該当するのであろうか。
これが明確に3の「メール・フェミニスト」なのである。
下村氏が「男性運動」として扱うには値しないと考えた(と推測される)メール・
フェミニストが日本では大手を振っているのである。
彼らは「男の生きづらさ」などという、いかにも男性に対して理解ありげな言葉を使う。
しかし、きちんと読めば「男は被害者だから生きづらい」のではなく、
「男は加害者だから生きづらい」いう意味であることに気付くだろう。
(「加害者扱いされているが実は被害者である」とかそういうニュアンスではない)
「加害者として反省し、フェミニズムの言うことを聞けば「男の生きづらさ」から
開放されます」というその内容は、私に言わせれば「ふざけている」としか言いようがないものだ。
日本における「男性学」ほど男性をバカにした言説はないであろう。
男性を侮辱する言説が「男性学」と自称し、まかり通っていることがとても腹立たしい。

しかし、男性であることに悩んでいる人が、図書館や書店に行って見つける本は、
彼らの本である確率が非常に高いのが実情である。
彼らの本を読むと、どことなく、新興宗教の入信セミナー的な「嘘っぽい
アットホーム感」が漂っている。
「男性である」ということで悩んでいる人が、それらのエセ男性学(フェミニズムの
傀儡男性学)に「入信」してしまうことのないよう祈るばかりだ。

2017年8月 5日 (土)

男性の人権について -2-

今回は、男性の人権について、道路の信号機を例に考えてみたい。

先を急いでいるのに、信号機が赤であるがために、止まらざるを得ないと
いうことは、誰もが日常的に体験していることだろう。
つまり、道路の信号機は、私たちの権利(人権)を制限する存在である。

信号機について保守主義者は、こう考える。
「信号機(人権の制限)とは国家という、国民より上位の存在が国民に対して
課す義務である」と。
それに対して、リベラル主義者はこう考える。
「信号機とは、人と人(或いは車)同志の衝突を防ぐ、権利調整手段である」と。
人や車の往来が多い交差点に信号機を設けずに放っておいたら、
人と人(或いは車)とがぶつかってしまい、ぶつかった者双方に不幸な結果となる。
そこで、信号機を設置し、権利の調整をして、人(人権)同士の衝突を防止すると
いう訳だ。
(このような人間同士の権利調整の結果、生じる信号機(人権の制限)を
「人権の内在的制約」と言う。)

では、人(人権)と人(人権)とが衝突することがありえない場所に
国家が「国益のため」と称して信号機(人権制限)を設置したらどうなるだろう。
(このような信号機(人権制限)を「人権の外在的制約」という)
保守主義者はこう考える。
「お国の定めた義務だから、国民は従わなければならない。」
リベラル主義者はこう考える。
「人と人(人権と人権)が衝突する可能性のない場所に信号機(国民の権利制限)を
設置する事は、国家による国民に対する不当な人権侵害である。」

現在の日本国憲法は、リベラルな憲法であり、原則として、人(人権)と人(人権)が
ぶつかる可能性がある場所のみに信号機(人権の制限)を設けることが出来ると
解されている。

もう一つ重要なのは「信号表示の平等性」である。
信号の表示(赤とか青とか黄色とか)は、誰に対しても平等でなければならない。
「偉い人が来たときには青を表示するが、卑しい者が来たときには赤を表示する」とか、
「女性が来たときには青を表示するが、男性が来たときには赤を表示する」と
いうような不平等は許されないのである。
これを「法の下の平等」といい、以下に示す憲法14条で宣言されている。
>第14条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、
>社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

「性別により差別されない」と書いてあり、「女性であることにより差別されない」
とは書いてないことに注目するべきである。
つまり「女性であることにより差別」してはいけないが、「男性であることにより差別」
してもいけないわけだ。

ただし、特に左翼的傾向の強い人は、こう考えることがある。
「社会的弱者に対しては、信号を優先的に青表示するべきだし、それは法の下の平等
には反さない」
例えば、交差点においては、人間(弱者)が優先、車(強者)は劣後となっていているが、
それは、「法の下の平等」には反さないのと同様という訳だ。
そして、女性を社会的弱者とみなすと「女性に対しては、信号を優先的に青表示しても
「法の下の平等」には反さない」というフェミニズムにとって都合の良い結論と
なるのである。

その結果、電車において「男性に対しては赤信号、女性に対しては青信号」の車両
(女性専用車両)が出てくる訳だ。

私としては「社会的弱者に対して、信号を優先的に青表示する」ということに絶対的に
反対と言う訳ではない。(場合と程度によると考えている)
ただし「女性に対して優先的に青信号を表示する」ことに対しては絶対反対である。
なぜなら、私にとって、女性は弱者ではないからである。
私にとって、女性は、私の欲しかったものを全部奪っていった強者なのである。

« 2017年7月 | トップページ | 2017年9月 »

最近のコメント

リンク集

  • Nikkoh の 徒然日記
    男性同性愛者、Nikkohさんのブログです。マスキュリズムについての記事が大変参考になります。「手弱男」として、弱者男性の問題についても関心をお持ちです。
無料ブログはココログ