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2018年4月

2018年4月30日 (月)

ジェンダーギャップ指数の「まやかし」

読者は、「ジェンダーギャップ指数」というものを聞いたことがあるに違いない。
そして、ジェンダーギャップ指数において、日本の順位が如何に低位で
「性差別(女性差別)」の国かという話を聞かされているに違いない。
しかし、私は、このジェンダーギャップ指数なるもので男女差別の度合いを
測ることをナンセンスだと感じている。
なぜなら、この指数は、男性が不利な項目について計測していないからだ。
つまり、男性が不利な目にあっていても、それはジェンダーギャップとして
認識されないのである。

例として、お隣の韓国を考えてみよう。
女性の政治家が大統領になれば、ジェンダーギャップ順位は
(ジェンダーギャップが少ないという国という方向に)上がる。
従って、朴槿恵が大統領になったということは(既に同氏が罷免されたとはいえ)、
韓国のジェンダーギャップ指数をいい方向に上昇させたはずだ。
しかし、韓国には、もうひとつ重大なジェンダーギャップがある。
「男性に対してのみの徴兵制」である。
この男性に対してのみ苦役を負わせる制度が上記のジェンダーギャップ指数に
反映されるか?というと、全くされないのである。
(韓国大統領は、韓国軍の最高司令官だから、朴槿恵政権下の韓国は
「最高司令官は女性なのに、男性のみが徴兵される」という状況だったことになり、
まさに「ジェンダーギャップここに極まれり」だと私は考えるが、
件のジェンダーギャップ指数では、ギャップが減ったという評価に
なってしまうのである)

「徴兵制」に限らず、「刑罰が男女平等に課されているか」、「父親と母親の
子どもに対する権利が平等に扱われているか」、「消費において、両性を平等に
扱っているか」などの男性が不利益を被る可能性が高い項目は、
ジェンダーギャップ指数に反映されない。

以前、ジェンダーギャップ指数について「男性の方が不利という結果が出た時は、
男性差別として認識するので男女双方に公平だ」という説明を何かで読んだが、
ごまかしである。
(女性が不利な項目ばかりを計測している時点で根本的な不公平が生じているのは
誰にでも分かることだ。)

女性が不利な項目ばかりを計測している理由として、世界「経済」フォーラムによる
指数であることが挙げられよう。彼らがテーマとする「経済」や「政治」などは
女性が不利な分野だ。
(そして、日本においてそれらの分野への女性の進出が遅れているのは事実であろう)

しかし、日本ではジェンダー指数は、恰も、絶対的な男女差別指数であるかのように
報道されている。そして、それは結果的に男性に対する差別を覆い隠してしまうので
ある。
男性を幾ら差別しても、順位が下がることはない為、「女性専用車両」のような
男性差別も、一切、このジェンダーギャップ指数には影響しない。
そして、フェミニズムやマスコミによるジェンダーギャップ指数日本低位の糾弾が、
行政による各種女性優遇や男性差別を引き起こしていることは想像に難くない。

私たちは、まず、このジェンダーギャップ指数が事実上「女性差別」のみを計測し、
「男性差別」を無視していることを認識しなければならない。
そして、その「まやかし」を世間に広めていくことが重要であると考える。

2018年4月29日 (日)

「男を降りる」のではなく「男から上がれ!」

ジェンダー系文献(特に男性フェミニストによるエセ男性学文献)を読んでいると
よく見かける表現に「男を降りる」という表現がある。
(例えば、「男性は今こそ、男から降りるべきである」というように使用される)
私は、この表現を好まない。
「男を降りる」という表現は男性にマイナスの意味で「男の方が上なのだ」と
いう意識を植え付ける罠ではないかという気すらする。
私に言わせれば、「男を降りる」のではなく「男から上がる」のだ。
男は乗る車両すら制限される奴隷である。
奴隷であることを止めることは「降りる」ではなく「上がる」或いは「登る」と
表現するべきであろう。

2018年4月20日 (金)

論より証拠 (女性専用車両は「痴漢防止のやむを得ない処置」か?)

ある日のJR西日本京都線(東海道本線)各駅停車の車内混雑の様子です。

S1

(「終日」女性専用車両)

S2_2

(一般車両)

こんな空いている電車に「終日」女性専用車両を導入することが、
どうして「痴漢対策の止むを得ない処置」と言えるのか、全く理解できません。

2018年4月19日 (木)

各社のラッシュ時女性専用車両導入と東横線の終日女性専用車両導入は私を最悪の状態に追い込んだ

2004年10月4日、私は一生懸命応援した時期もあった京王電鉄によって
女性専用車両から暴力的に排除され、心身ともに傷を負った。
そして、私は強い怒りの感情を抑えることができなくなった。
私は、精神科で怒りを抑える薬の処方を受け、それを飲むようになった。
その薬には副作用があった。飲むとフラフラするのである。
(というよりも、私の主観としては、フラフラにすることによって、怒りの感情を
感じていないように誤魔化そうとする薬という印象である)

そこに関東鉄道各社が2005年5月ゴールデンウイーク明けからラッシュ時に
女性専用車両を一斉導入するというニュースが飛び込んできた。
私は、本当に最悪の状態に追い込まれてしまった。
そして、一番の悪夢は、7月13日に訪れた。
5月に東急田園都市線を含む各線で女性専用車の導入がされた中、
東急東横線は、女性専用車両を導入しなかった。
私は、それを東急の良心だと思っていた。
しかし、違ったのである。
7月12日、東急は、東横線優等列車への「終日」女性専用車両導入を発表した。
5月に東横線へ女性専用車両を導入しなかったのは、良心からではなかったのだ。
単に、ラッシュ時への女性専用車両導入がうまくいくかどうか見計らって
いただけだったのだ。
そして、ラッシュ時への導入に成功したと見るや、東横線への終日女性専用車両導入を
発表したのである。
「やむを得ない痴漢対策」の筈が、空いている日中の時間帯も含んだ
終日女性専用車両の導入である。
ラッシュ時導入から2ヶ月で、早くも、女性専用車両がその本性を露わにし
始めたのだった。

ちなみに、東急は、ネット上に鉄道愛好家に向けたファンサイトを持っていたが、
女性専用車両導入直前にそれを閉鎖している。
おそらく、ファンサイトの閉鎖と女性専用車両導入は無関係ではない。
鉄道愛好家は、電車の先頭部で運転の様子や前方風景を見ることを好むが、
終日女性専用車両は先頭車に導入されるため、男性鉄道愛好家はそれができなくなる。
男性鉄道愛好家の反発を見越してのサイト閉鎖だったのだろうと思う。
東急は、私を含む鉄道愛好家(殆どが男性)ではなく、女性(加えて女性専用車両を
推進する国交省)に媚びる方を選んだのだ。

東横線への終日女性専用車両導入が発表された翌日の7月13日、私は怒りを
抑える薬を大量に飲んだ。
飲まずにはいられなかった。
そして、椅子から立ち上がろうとした時、私は薬の副作用でうまく立ち上がれず、
顔面から倒れてしまった。そして、大事な前歯を折ってしまったのである。
前歯を折ってしまったことは、その後の私の生活に大きなマイナスの影響を与えた。
(今は具体的には書きたくない。将来、書く気になったら書こうと思う)
私は、私にこれだけの絶望を与えた女性専用車両を絶対に許さない。
「女性専用車両は男性に対する人権侵害以外の何物でもない。」私は、確信を
持って断言する。

関連記事:2004年10月4日、私の心と体は京王電鉄による人権侵害によってズタズタにされた
関連記事:もう少しで小さい時からの宝物をオンナに奪われそうになった話

2018年4月15日 (日)

アメリカの男性運動を描いた映画「THE RED PILL」の無料上映会がゴールデンウイークから始まります

アメリカ人女性フェミニストがアメリカの男性権利活動家とその活動を撮影した
ドキュメンタリー映画、「THE RED PILL」の無料上映会が開催されます。

5月5日 東京・立川
6月17日 京都(予定)
7月21日 東京

です(詳しくはググってください)。
英語の映画ですが、日本語翻訳付きということで、見れば誰にでも、男性が置かれている
過酷な環境が理解できると思います。
私も輸入盤の同映画DVDは持っているものの、私の英語力の無さゆえ、意味が
一部理解できないところがあり、同上映会で見ることによって、それが解消するものと
期待しています。
日本での同映画上映のために努力された方々、クラウドファンディングに
出資された方に敬意を表したいと思います。

男性差別に関心のある方は、是非、上映会へ足を運んでみてください。

2018年4月 9日 (月)

「ドラキュラと美女の性愛論」(そして、ドラキュラと美女の力学)

以前も書いたが、私は、性愛の関係性は「ドラキュラと美女」に例えられると考えている。
通常は、男性(ドラキュラ)が女性(美女)の血を吸う。
ドラキュラと美女、どちらが加害者でどちらが被害者かといえば、
形式上は、ドラキュラが加害者で美女が被害者であろう。
しかし、実際には「血を吸われる」のは快楽なのである。
(だから、私は、思春期以降、常に「血を吸われる」女性を羨んで来た。
ただし、一方で「血を吸われるのが嫌い」という女性がいるのも確かだろう。)
フェミニストは、ドラキュラである男性を「加害者」として糾弾してきた。
「血を吸われる美女」を羨んで来た私は、フェミニストから「ドラキュラ」(加害者)と
して、糾弾されるのがたまらなく不愉快だ。
勿論、「ドラキュラ立ち入り禁止」(e.g. 女性専用車両)も不愉快で仕方ない。
ところが、抗議をすると「保守的男権主義者」のレッテルを貼られてしまうのである。
(「ドラキュラが自分の思い通りに美女の血を吸うのは正当だ」という主張なら、
「保守的男権主義者」扱いも間違ってはいないだろうが、私は「ドラキュラ扱い
されるのは不当だ」と主張しているのである)

では、男性はドラキュラであることをやめていいのか、というとそうではない。
美女(女性)にとって都合のいいドラキュラにならなければならないのである。
本来は、ドラキュラ(男性)が「こういう風に血を吸いたい」と思う通りに
美女の血を吸うものである。
しかし、現代のドラキュラは、女性が「こういう風に血を吸われたい」という思う
通りに血を吸わなければならない。主導権が逆転している訳だ。
(主導権が逆転しているとは言っても、決して女性がドラキュラに、男性が美女に
なるわけではない。)
他人同士である以上、ドラキュラ(男性)は美女(女性)がどのような血の吸われかたを
されたいか、一生懸命推測するしかない訳だが、失敗すると「セクハラ」と
糾弾されることになる訳である。
(勿論、いまだに「ドラキュラの方に主導権がある」と考えて行動するシーラカンスの
ような男性も糾弾対象となる。)

現代男性は、一生懸命、美女(女性)の望むような血の吸い方をし、フェミニストから
加害者として糾弾されたら「ああ、自分はなんと悪いドラキュラなのだろう」と
反省することが求められる。
(それが出来れば、フェミニスト様からは「男としてはマシな部類」と評価していただけることだろう。)
勿論、男性は間違っても、「自分も血を吸われる側(美女役)がいい」などと考えては
いけないのである。

ところで、性愛には「ドラキュラ(男性)が美女(女性)の血を吸う」という以外にも
パターンがある。
「少年愛」は、美女役を思春期の少年が務めるものだ。
(美女役が、必ずしも女性である必要はないのである)。
成人男性(ドラキュラ)が少年(美女)の血を吸うのが「少年愛」である。
但し、未成年対象の性愛がタブーとなっている現代では、「少年愛」も
タブーである。

一方、美女役が登場しないのが「成人男性同性愛(ゲイ)」である。
ゲイ男性(ゲイドラキュラ)は美女的なものにエロスを感じないのである。
彼らにとっては、「ドラキュラらしさ」こそがエロであり、
従って性愛は「ドラキュラ同士の血の吸い合い」となる。
(当事者双方ともドラキュラなので「ドラキュラが一方的に美女の血を吸う」というような
一方通行の関係にならない)
男同士の性愛であっても、「少年愛」と「成人男性同性愛」の構造がかなり異なるのが
お分かりいただけるだろうか?

以上が私の考える「ドラキュラと美女の性愛論」である。

2018年4月 4日 (水)

伊藤公雄の「歴史修正主義」を批判する

今回は「歴史修正主義は右翼の専売特許」かと思っていたら、そうではなかったと
言うお話である。
「日本の男性学の第一人者」(苦笑)、伊藤公雄については、このブログで何度か
批判した。
その伊藤公雄が「学術の動向」2008-04に書いた
「ジェンダーの社会学 -男性学・男性性を中心に-」
という文章の一節を引用する。

>日本においても、1980年代に入ると、男性学・男性性研究がうぶ声をあげた。
>社会学分野では、筆者(引用者注:伊藤公雄)の「<男らしさ>の挫折」(作田・富永編
>『自尊と懐疑』、筑摩書房、1984)が、また心理学の領域では渡辺恒夫
>『脱男性の時代』(1987)などが代表的なものといえるだろう。

興味や知識のない人ならば、何も感じず通り過ぎてしまう文章かもしれない。
しかし「ジェンダー方面の研究で日本における最初の「男性学」提唱者は誰か」という
観点から見るとき、この文章は大きなウソを孕んでいるのである。
上の文章では、伊藤公雄が1984年、渡辺恒夫が1987年となっている。
(伊藤公雄は、渡辺恒夫の「脱男性の時代」を1987年と書いているが、実際には、
1986年なので、以下、1986年とする)
ここで、伊藤公雄は、さり気なく「オレの方が渡辺恒夫より先だ」とアピールしている
のである。
図書館で実際に本を確認したが、伊藤公雄が
作田啓一、富永茂樹編『自尊と懐疑 -文芸社会学をめざして』(1984)という書籍の
「<男らしさ>の挫折」という章を執筆したのは事実である。
一方、渡辺恒夫の男性ジェンダー研究に於ける代表作『脱男性の時代』は1986年である。
ということは、伊藤公雄が、日本に於ける「男性学」の嚆矢なのだろうか?

実は、カラクリがある。
伊藤公雄の「<男らしさ>の挫折」は、彼が一冊執筆したわけではなく、
他の編者による書籍の一章を執筆したに過ぎず、その書籍のテーマもジェンダーでは
なく「文芸社会学」である。
(表紙にも、章の最初にも「伊藤公雄」の名前は出ておらず、かろうじて、最後の方の
執筆者一覧で、当該章を伊藤公雄が執筆したことが分かる)

一方、渡辺恒夫の『脱男性の時代』は、渡辺恒夫が彼の名で全て執筆し、一冊丸ごと
男性のジェンダーについての書籍である。
そして、一番大事なことは『脱男性の時代』は書き下ろしというわけではなく、
渡辺恒夫が過去に書いた論文を一冊にまとめあげたものだということだ。
つまり、オリジナルはもっと古いのである。

伊藤公雄と渡辺恒夫を比較する時に、伊藤の「<男らしさ>の挫折」を基準にするならば、
渡辺恒夫は
「近代・男性・同性愛タブー -文明、および倒錯の概念(1)- 」高知大学学術研究報告
第28巻(1980)
を挙げなくてはならないだろう。
(つまり、伊藤公雄よりも4年早い。しかも、同論文では既に「男性学」という概念が
出てくるのに対し、伊藤公雄の「<男らしさ>の挫折」に「男性学」の文字はない。(注1))

逆に、渡辺恒夫の『脱男性の時代』を基準とするならば、伊藤公雄は
『<男らしさ>のゆくえ - 男性文化の文化社会学』新曜社、1993となる。
(つまり、渡辺恒夫の方が7年早い)

それを、伊藤公雄は恣意的なダブルスタンダードによって、あたかも自分の方が
先であるかのように書いているのである。

このようにして、伊藤公雄は着々と「歴史修正」を加え、そして、いまでは、
あたかも「自分が日本に於ける男性学の最初の提唱者です」というようなことを
言うに至っている。
それを見る度、私はこう思うのだ。
「伊藤公雄先生、「他者を押しのけてでも、自分が優越しよう」という悪しき
「男性性」をお捨てにならなければならないのは、まずはご自分ではないのですか?」と。

------------
(注1)
伊藤公雄はそれをごまかすために「男性学・男性性研究」という複合語を使っていると
考えられる。伊藤公雄の「<男らしさ>の挫折」に「男性学」という単語や概念は
出て来ないので「80年代の男性学の代表」と書いてしまうとまずい訳だ。
しかし、男性性研究ではあるので、「男性学・男性性研究」と書けば取り敢えずウソでは
なくなるのである。
伊藤公雄の文章はこの手のごまかしが多すぎる。

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