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2018年4月 9日 (月)

「ドラキュラと美女の性愛論」(そして、ドラキュラと美女の力学)

以前も書いたが、私は、性愛の関係性は「ドラキュラと美女」に例えられると考えている。
通常は、男性(ドラキュラ)が女性(美女)の血を吸う。
ドラキュラと美女、どちらが加害者でどちらが被害者かといえば、
形式上は、ドラキュラが加害者で美女が被害者であろう。
しかし、実際には「血を吸われる」のは快楽なのである。
(だから、私は、思春期以降、常に「血を吸われる」女性を羨んで来た。
ただし、一方で「血を吸われるのが嫌い」という女性がいるのも確かだろう。)
フェミニストは、ドラキュラである男性を「加害者」として糾弾してきた。
「血を吸われる美女」を羨んで来た私は、フェミニストから「ドラキュラ」(加害者)と
して、糾弾されるのがたまらなく不愉快だ。
勿論、「ドラキュラ立ち入り禁止」(e.g. 女性専用車両)も不愉快で仕方ない。
ところが、抗議をすると「保守的男権主義者」のレッテルを貼られてしまうのである。
(「ドラキュラが自分の思い通りに美女の血を吸うのは正当だ」という主張なら、
「保守的男権主義者」扱いも間違ってはいないだろうが、私は「ドラキュラ扱い
されるのは不当だ」と主張しているのである)

では、男性はドラキュラであることをやめていいのか、というとそうではない。
美女(女性)にとって都合のいいドラキュラにならなければならないのである。
本来は、ドラキュラ(男性)が「こういう風に血を吸いたい」と思う通りに
美女の血を吸うものである。
しかし、現代のドラキュラは、女性が「こういう風に血を吸われたい」という思う
通りに血を吸わなければならない。主導権が逆転している訳だ。
(主導権が逆転しているとは言っても、決して女性がドラキュラに、男性が美女に
なるわけではない。)
他人同士である以上、ドラキュラ(男性)は美女(女性)がどのような血の吸われかたを
されたいか、一生懸命推測するしかない訳だが、失敗すると「セクハラ」と
糾弾されることになる訳である。
(勿論、いまだに「ドラキュラの方に主導権がある」と考えて行動するシーラカンスの
ような男性も糾弾対象となる。)

現代男性は、一生懸命、美女(女性)の望むような血の吸い方をし、フェミニストから
加害者として糾弾されたら「ああ、自分はなんと悪いドラキュラなのだろう」と
反省することが求められる。
(それが出来れば、フェミニスト様からは「男としてはマシな部類」と評価していただけることだろう。)
勿論、男性は間違っても、「自分も血を吸われる側(美女役)がいい」などと考えては
いけないのである。

ところで、性愛には「ドラキュラ(男性)が美女(女性)の血を吸う」という以外にも
パターンがある。
「少年愛」は、美女役を思春期の少年が務めるものだ。
(美女役が、必ずしも女性である必要はないのである)。
成人男性(ドラキュラ)が少年(美女)の血を吸うのが「少年愛」である。
但し、未成年対象の性愛がタブーとなっている現代では、「少年愛」も
タブーである。

一方、美女役が登場しないのが「成人男性同性愛(ゲイ)」である。
ゲイ男性(ゲイドラキュラ)は美女的なものにエロスを感じないのである。
彼らにとっては、「ドラキュラらしさ」こそがエロであり、
従って性愛は「ドラキュラ同士の血の吸い合い」となる。
(当事者双方ともドラキュラなので「ドラキュラが一方的に美女の血を吸う」というような
一方通行の関係にならない)
男同士の性愛であっても、「少年愛」と「成人男性同性愛」の構造がかなり異なるのが
お分かりいただけるだろうか?

以上が私の考える「ドラキュラと美女の性愛論」である。

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