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2018年7月

2018年7月29日 (日)

消費者としての男性 2000年代編

2000年代になった日本で、男性は消費者として、どのように扱われただろうか。
それまで男性が消費者として注目されるとすれば、それは若い男性であった。
中年男性は、働いて稼ぐのが社会的に与えられた役割であり、消費は彼らの役割では
なかったのである。
ところが、2000年代は、中年男性を消費者として捉えようという動きが
目立ったのが特徴であろう。

まず、2001年9月に、現在も発行されている中年男性向けファッション雑誌
「LEON」が創刊されている。
「LEON」は、冗談なんだか、本気なんだか、私には、よくわからない雑誌だが、
「オヤジ」という言葉を多用し、現代において蔑視語となった「オヤジ」と
いう言葉を肯定的なかっこいい言葉に変えようという意図が感じられ、
そういう意味では、評価できる雑誌だった。(*注1)

2003年9月には、新宿伊勢丹の「男の新館」が「メンズ館」としてリニューアルされ、
高い評価を得た。(*注2)

2004年年初には、日経流通新聞が「HAPPY NEW MAN」という特集記事を載せている。
「男性が消費に進出する」という内容の記事である。

この頃、注目を集めたキーワードとして「メトロセクシャル」という言葉がある。
直訳すれば「都会の性」だが、「都会的でファッションセンスもある消費に熱心な
異性愛の男性」を意味する。
個人的には「何で「異性愛者」である必要があるのか、「同性愛者」でもいいではないか」
と思うのだが、「メトロセクシャル」が「ヘテロセクシャル」(異性愛者)との
語呂合わせなので、どうしても「異性愛者」である必要があるらしい(?)。


2005年9月11日の朝日新聞には
「消費をリードするメトロセクシャル、男もキレイになりたい」という記事が掲載されて
いる。

しかし、2000年代男性消費ブームも、この頃までであった。
マスコミが騒いだほど、売上が伸びたのかどうかも今ひとつ不明である。
「LEON」に続いて創刊された「UOMO」も売上不振が囁かれたりした
(その後、リニューアルをして、持ち直した。但し、同じ出版社の中年男性向け雑誌
「BRIO」は廃刊となった。)

私的に、次に画期的な動きとなるのは有楽町の「阪急メンズ東京」開店だと思うのだが、
こちらは、2010年代になってからの話になるので、今回はここまでとしたい。

この時期のキーワード
オヤジ(蔑視語から肯定的ワードへの変化の試み)
メトロセクシャル

(*注1)そもそも「オヤジ」という言葉は、勿論、本来は蔑視語ではなく、高度成長期には、
尊敬の念が込められた言葉だった。
それが、消費優位社会を迎え、消費の主体である女性がおだて上げられるように
なるにつれ、消費と縁遠い「オヤジ」が逆に蔑視語となっていったのである。
私なりの認識による1980年代以降の中年蔑視語の変遷としては、

「オジタリアン、オバタリアン」(映画「エイリアン」の影響であろう)
「オジン、オバン」(女性に対する「オバン」表現はすぐに消え、
「オジン」という男性に対する表現だけが残った)
「オヤジ」

という感じである。

(*注2)とは言え、本館から切り離された別館であり「メンズ館」という「有徴」ネームで
あることに留意しなければならない。
本館の方は、当たり前のように女性がお客であることを前提として造られているのである。
フェミニズムは「女性は社会で有徴(=非標準)として扱われている」というが、
消費の世界では全く逆なわけだ。
それでも、伊勢丹メンズ館は、まだ良い方だろう。
新宿丸井のメンズ館となると、完全に新宿東口の街外れ、場末感漂う場所に立地している。

2018年7月19日 (木)

「口裂け女」と「3大テノール」

私が小学校高学年の時、「口裂け女」という都市伝説が流行した。
(若い人は知らないかも知れない。Wikipediaに載っているので詳しく
知りたい場合はそちらを見てください)
内容は、
暗い道を歩いていると、マスクをした女が近づいてきて「私、綺麗?」と尋ねる。
「綺麗です」と答えると「これでも綺麗?」とマスクをとる。
マスクを取ると、口が大きく裂けている・・・
という内容であった。
私は、この話に本当に怯えてしまった。
母親に話すと「本当ならば、PTAから親に連絡があるわよ」と笑っていたが、
それでも怖かった。

時は下って、バブル時代。
バブルの頃は、「若い女性、女の子」を語るのが、時代を語ることだった。
(例えば、山根一眞『変体少女文字の研究―文字の向うに少女が見える』など)
当時、人気商品を語る際に「女性に人気」というフレーズは必要不可欠だった。
そして、その中で、私は自分が好きなものや、自分が体験したことが、
どんどん「女のモノ、女の体験」として語られていった。
私は、その度に、何か大事なものを奪われていくような苦痛を感じた。
(但し、私はいわゆる「変態少女文字」は書いたことがないので、誤解のないように。)
その中の一つに、「口裂け女」もあった。
何かの本(マーケティング雑誌だったかも知れない)で「口裂け女」は
女の子が過去に体験した都市伝説として語られた。
そして、女の子(女性)にとって、口裂け女がどのような意味を持っていたか、
何故、彼女たちに、口裂け女がフォークロアとして流行したのか、が書かれていた。
そこには、「口裂け女」に恐怖した男の子たち(口裂け女を怖がっていた男の子は
私だけではない)に関する記述はなかった。
それを書いた人物は、口裂け女伝説が男の子にも流行したことを知らなかったので
あろうか?
いや、書き手は、そもそも男の子には関心がないのである。
口裂け女が男の子にも流行ろうが、流行るまいがどうでもいいのである。
女の子や若い女性だけが関心を持つに値する存在なのだ。
そのようにして、バブルの頃、私は、興味を持たれるに値しない「男」である自分、
無価値な自分を痛感して過ごしたのだった。

その一方で、マスメディアを見れば「女性が蔑視されている、女性が無視されている」
という論調のオンパレードで、気が狂いそうだった。
(ちょっと関係ないかも知れないが、彼らのダブルスタンダードぶりは、例えば、
朝日新聞社のやっていることを見ればわかる。
「女性の性を商品化するな」とか「美女コンテストは女性差別だ」いうフェミニズム的
姿勢に同調するかのような論調を取りながら、その一方で、週刊朝日の女子大生表紙
シリーズは平然と続けるのである。)

以前、紹介したが「好きなものに男女の差はないはずなのに、日本社会で
「女性に人気」というフレーズが乱発されるのは不思議」という趣旨の外国人による
寄稿が朝日新聞に載ったのは、1995年のことである。
私が「女性に人気」ノイローゼになってから10年近くが経過していたから、
「何を今更」感があったが、掲載されないよりはマシだった。

その頃、私が買ったCDが「三大テノール」(ドミンゴ、カレーラス、パバロッティ)の
リサイタルのCDだった。「女性は女性であるというだけで注目されるのに、男性は
全く注目されない」という苦しみの中、3大テノールは、「男性である」のに、
(或いは「男性であるから」)注目されるという稀有な例に見えたのである。

翻って、今は、「女性に人気」というフレーズをあまり見かけない。
「女性に人気」というフレーズそのものが減ったのか、それとも、私自身が、そういう
フレーズを乗せる媒体(新聞雑誌やテレビ)を見なくなったのが原因なのか。
おそらく「女性に人気」というフレーズ自体が、減っているとは思う。
但し、「女性に人気」であることが不要になったのかといえばそんなことはなく、
むしろ、語るまでもない当たり前の前提となった、と解釈したほうが良さそうである。

2018年7月 9日 (月)

消費者としての男性 1990年代後半編

前の記事にも書いた通り、
バブル時代(1980年代後半-1990年代前半)は、ひたすら女性が持て囃された時代だった。
しかし、バブルが崩壊して、不況が本格化する1990年代半ばになると、社会の空気が
変わってきた。
その中で「女性礼賛」にも、陰りが見え始める。
例えば、1980年代からバブル時代にかけて若い女性を礼賛し続け、「hanako族」などの
ヒットマーケティング用語を生み出した「月刊アクロス」というマーケティング雑誌は
1998年に廃刊になっている。
その「月刊アクロス」が廃刊になった1998年の「東京人」という雑誌の年末頃の号
(号数不明)に町山広美氏の「”女の時代”終結宣言。」というコラムが掲載されている。
概要を述べると
「ここ20年ほど、女性の時代と言われ、女性が持て囃されてきた。
でも、女性がおだてられたのは商売のため。若い女性が時間とお金を持つようになり、
しかもその市場は未開拓だったから、商売人たちは「いいカモ見っけ」と若い女性を
おだて、新しい商品を買うように仕向けた。でも、市場はいつか掘り尽くされる。
最近、商品が売れないのは、不景気だけが原因ではなく、女という市場が
掘り尽くされてしまったからだ」
そして、最後に予言。「これから伸びるのは若い男の子という市場だろう」
という内容である。

「若い女性の次は、若い男性だ」というのは、この時の町山氏のコラムに限らず、
バブル前或いはバブルの最中にも、何度か見られた主張である。
しかし、それが実際に大きなブームとなったことはなかった。
男性が女性ほど消費に興味を持たないというのも理由であろうが、「女性の商品価値」
と自分達の商品価値を前提とした彼女達の消費意欲、彼女達にひたすら媚び続ける
商業主義のコラボレーションの持つ圧倒的な力の前では、男性の消費意欲など
無力だったのだ。

しかし、やっと、その「商業主義的女性の時代」に陰りが見えて来た頃に、
丁度、男女共同参画社会基本法が成立、施行されるのである(1999年)。
私は、この法律を機に、それまで商業資本によって喧伝されていた
「(商業主義的)女性の時代」が、行政ベースの「男女共同参画」(実態は、行政による
女性優遇)へバトンタッチしたと見ている。

最近、某LGBTの方(LGBTに関する講演などもしている)のブログを見ていたら、
行政の人から「今後LGBTに関する講演への予算が減る」と言われたという話が
書いてあった。
予算が「LGBT」から「女性活躍」に廻されるからだそうで、今後「女性活躍」への
派手な税金ばらまきが見られそうである。(ため息)

最後は「消費者としての男性」から話がずれてしまったが、次回は2000年代に
入ってからの「消費者としての男性」について書こうと考えている。

2018年7月 5日 (木)

(続)北原みのりという男性憎悪デマゴーグ

「今更」感のある記事となってしまうかも知れないが。
北原みのりの週刊朝日(2018/6/29号)の連載コラムは、やはりひどい。
そもそも「新横浜からコンサート帰りの女性が沢山乗り込んだことが犯行の引き金に
なった」という彼女の見方そのものが、何らの客観的証拠のないものなのだが、
それに加えて彼女はこう書く。
「でも、もし、新横浜から乗ってきたのが屈強な男たちだったら?
隣に座ったのが身体の大きい男だったら?」と。
ここに、北原みのりが自分に都合のいい方に話を誘導しようとする姿勢がモロ見えに
なっている。
「女性が沢山乗り込んだから狙われたのだ、男性だったら狙われなかったのだ」という
意のことを書くのだったら、男性を想定するに当たって、女性と同等の人々を
想定しなければならないだろう。
今回であれば「女性アイドルグループのコンサート帰りの男性たち」を想定しなければ
ならない筈だ。
それが何故か「屈強な男たち」(私は寡黙な自衛隊員のグループを連想してしまった)に
すり替わっている。
犯人の隣に座った人物も単に「男性」としなければ公平でないのに「身体の大きい」と
いう形容が加わってしまっている。
何が何でも「新横浜から大量に乗ったのが男性だったら、事件は起きなかったのだ」、
ということにするための印象操作と言われても仕方がないであろう。

「好きなスターのコンサート帰りの女たちの華やぎが、男を冷静にさせるどころか、
疎外感といらだちを深め暴発させる。その空気が私には分かる」
まるでその場に居合わせたかのような表現だが、これまで2回に亘って考察してきた
ように、このコラム自体、客観的裏付けのない妄想と印象操作ばかりである。
そんな記事で新聞の3面ドキュメンタリー記事のようなことを書かれても、
私は全く説得力を感じない。
結びに「そんなリスクを孕んだ車両に、私は、今日も乗っているような気持ちになる。
それは、とても悲しくて、怖い平成の電車だ」とある。
前回の記事を書いた時には、考えつかなかったのだが、この文章、女性専用車両の
正当化の意図があるのではないかという気がしてきた。
こんないい加減な記事によって、女性専用車両が正当化されていくとしたら、
それこそ恐ろしいことだ。

男性を加害者として、おどろおどろしく描き、ひたすら、男性に対する憎悪を煽る
北原みのり。
男性は、本当にマジョリティーなのだろうか?
(マイノリティーは、往々にして、社会の被害者としてではなく加害者として描かれる
ことを忘れてはならない(例えば、在日にしろ、ユダヤ人にしろ、彼らは、社会の
「加害者」とされていたのだ))。

関連記事:北原みのりという男性憎悪デマゴーグ

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