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2018年7月 5日 (木)

(続)北原みのりという男性憎悪デマゴーグ

「今更」感のある記事となってしまうかも知れないが。
北原みのりの週刊朝日(2018/6/29号)の連載コラムは、やはりひどい。
そもそも「新横浜からコンサート帰りの女性が沢山乗り込んだことが犯行の引き金に
なった」という彼女の見方そのものが、何らの客観的証拠のないものなのだが、
それに加えて彼女はこう書く。
「でも、もし、新横浜から乗ってきたのが屈強な男たちだったら?
隣に座ったのが身体の大きい男だったら?」と。
ここに、北原みのりが自分に都合のいい方に話を誘導しようとする姿勢がモロ見えに
なっている。
「女性が沢山乗り込んだから狙われたのだ、男性だったら狙われなかったのだ」という
意のことを書くのだったら、男性を想定するに当たって、女性と同等の人々を
想定しなければならないだろう。
今回であれば「女性アイドルグループのコンサート帰りの男性たち」を想定しなければ
ならない筈だ。
それが何故か「屈強な男たち」(私は寡黙な自衛隊員のグループを連想してしまった)に
すり替わっている。
犯人の隣に座った人物も単に「男性」としなければ公平でないのに「身体の大きい」と
いう形容が加わってしまっている。
何が何でも「新横浜から大量に乗ったのが男性だったら、事件は起きなかったのだ」、
ということにするための印象操作と言われても仕方がないであろう。

>「好きなスターのコンサート帰りの女たちの華やぎが、男を冷静にさせるどころか、
>疎外感といらだちを深め暴発させる。その空気が私には分かる」
まるでその場に居合わせたかのような表現だが、これまで2回に亘って考察してきた
ように、このコラム自体、客観的裏付けのない妄想と印象操作ばかりである。
そんな記事で新聞の3面ドキュメンタリー記事のようなことを書かれても、
私は全く説得力を感じない。
例えるならば、北原みのりは白紙のキャンバスに「犯人の心理」と称して
とても歪んだグロテスクな絵を描いた。
しかし、何の当事者性もない北原みのりに、犯人の本当の心中が分かるはずがないではないか。
分かりもしないものをグロテスクに描く人物がいたら、本当にグロテスクなのは
犯人ではなく、作者(=北原みのり)の心理ではないのか?

記事の結びに「そんなリスクを孕んだ車両に、私は、今日も乗っているような気持ちになる。
それは、とても悲しくて、怖い平成の電車だ」とある。
前回の記事を書いた時には、考えつかなかったのだが、この文章、女性専用車両の
正当化の意図があるのではないかという気がしてきた。
こんないい加減な記事によって、女性専用車両が正当化されていくとしたら、
それこそ恐ろしいことだ。

 

男性を加害者として、おどろおどろしく描き、ひたすら、男性に対する憎悪を煽る
北原みのり。
男性は、本当にマジョリティーなのだろうか?
(マイノリティーは、往々にして、社会の被害者としてではなく加害者として描かれる
ことを忘れてはならない(例えば、在日にしろ、ユダヤ人にしろ、彼らは、社会の
「加害者」とされていたのだ))。

関連記事:北原みのりという男性憎悪デマゴーグ

 

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