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2018年9月

2018年9月24日 (月)

展覧会:「ミケランジェロと理想の身体」(於:国立西洋美術館)

まず、渡辺恒夫教授の1980年の論文「近代・男性・同性愛タブー -文明、および倒錯の概念(1)-」
高知大学学術研究報告 第28巻
(https://ir.kochi-u.ac.jp/dspace/bitstream/10126/1450/1/H028-02.pdf)
の引用から始めたい。

>今日のわれわれにとって人類雌性の美における優越は、何ら疑うべき余地のないものに
>みえる。
>女性は単に美しくある必要があるだけではない、事実美しいからこそその天与の資質を
>ますます引立てるべく装いを凝らしあるいは肌をあらわにし、一方、男性は美しくある
>必要がないだけでなく際立たせるべき何らの美をももたないがゆえに、一律の背広という
>むさくるしいとしか言いようなない(原文ママ)服装に甘んじているかに思われる。
(中略)
>しかしながら、人類はじまって以来美における女性の優位が固定したものであったように
>考えることが全くの俗見であり、それどころか現在みるような女性覇権がたかだか
>この4・5世紀の間にうちたてられたに過ぎないことは、美術や服飾の歴史に通じた者には
>容易に看破できることである。
>たとえばルーヴル美術館のような、古代から現代にいたるまでの美術の流れを鳥瞰しうる
>大規模美術館を訪れてみるがよい。
>そこで逢着するのは、ギリシア-アルカイック期からミケランジェロにいたるまで、
>絵画と彫刻とを問わず女性裸像を質量ともに圧倒して見る者に迫ってくる男性裸体像群で
>ある。

という訳で、場所は、(残念ながら?)ルーヴル美術館ではなく、東京・上野の
国立西洋美術館である。渡辺恒夫教授も言及しているミケランジェロの2つの
有名作品(ダヴィデ=アポロ、若き洗礼者ヨハネ)を目玉とする「ミケランジェロと
理想の身体」展をみてきた。(今日9月24日が最終日)
私にとって「私の属する男性という性の肉体が芸術でありうるか」というのは、
10代の頃から悩んでいたテーマであった。
以前書いたように、私の色気付いて最初のオナペットは、美術全集だったが、
そこでは(私の見る限り)、エロチックに描かれているのは女性の肉体ばかりで、
男性は描かれても脇役だったり、汚い色使いで描かれていたりした。
20代のバブルの頃は、テレビや雑誌で女性の肉体がエロチックなものとして扱われる反面、
男性の肉体(裸体)は、テレビに出てくるときには、笑いを取る時、あるいは
グロテスクなゲームをする時に登場するものだった。
そして、私は、それらを見る時、女性のエロチックな肉体を羨み、男性の滑稽な
肉体を憐れみ、そして、その滑稽な肉体しか持たない自分自身を呪った。

その頃(バブルの極まった1989年頃)、見つけたのが渡辺恒雄教授の『脱男性の時代』
(勁草書房、1986)で、そこには上記引用文章とほぼ同じことが書かれていて、
私は、びっくりし感激するとともに、「本当であろうか?」という疑念を
抱いたことを覚えている。

さて、今回のこの展覧会名に2つ注をつけるならば、第一にミケランジェロの作品は、
展示作品のごく一部である。(著名なミケランジェロの彫刻代表作2作品が目玉であるため、
ミケランジェロの名を冠した展示会名になったのであろうか)
第二に、「理想の身体」とは、「理想の男性身体」と言った方が正確である。
私的には、なぜ、「ミケランジェロと理想の男性身体」展という名前にしないのか
疑問に思う。
「芸術とは女性を描くことである」と考えている世間からある種の「誤解」を
受けるからだろうか、とも思ったが、主催者挨拶みたいなものをみると、
あっさり、「理想の男性美」についての展覧会であることが書いてある。

そういう訳で、展覧会場に入ってみると、見事に男性の裸像ばかりが並んでいる。
ついでに言うと、幼児、子供(男の子)の裸の彫刻や絵もあって、何故、古代ギリシャ人が
幼児や子供の裸体を描写の対象として選んだか、と言うような解説もなされていた。
私としては、現代であれば児童ポルノということになりかねないものでも、「過去のゲージュツ」と
いうことになれば、許されちゃうのね、などとあらぬ感想を抱いてしまった。
しかし、過去にこれだけの男性の肉体をモチーフにした芸術作品があるのに、
何故、現代における芸術作品が女性ばかりなのか(「ばかり」と言ってしまうと語弊がある
かもしれないが)、何故、『脱男性の時代』を読むまで、私が古代から現代まで
芸術として描かれてきたのは女性(だけ)だったと認知していたのか。

この展覧会によって、私は、まさしく古代ギリシャや暗黒の中世を抜け出した
ルネサンス期ヨーロッパに於いて男性の肉体美が芸術の一大テーマであったことを
実感した。
しかし、展覧会場を後にして、美術館の外に出てみれば、西洋美術館のモニュメントを
バックに男性が連れの女性の記念写真を撮る(つまり、描かれるのは女性)という
相変わらずの風景が待っていたのだった。

なお、私は基本的に美術方面には疎い人間なので、上記文章中に意図せぬ間違いが
あったならお詫びしたい。

2018年9月15日 (土)

「新潮45」8月号の杉田水脈氏の文章を読んで考えたこと

ひょっとしたら「今さら」な話題なのかもしれないが、「新潮45」8月号に
掲載された杉田水脈氏の「「LGBT」支援の度が過ぎる」の全文を読んだので、
私なりの感想を書いてみたいと思う。
世間では、専ら「LGBTには生産性がない」の部分に議論が集中しているような印象を
私は受けているが、私はそれとは別の部分に着目することにする。

>マスメディアが「多様性の時代だから、女性(男性)が女性(男性)を好きになっても当然」
>と報道することがいいことなのかどうか。
>普通に恋愛して結婚できる人まで、「これ(同性愛)でいいんだ」と、不幸な人を増やす
>ことにつながりかねません。

最初に抱く疑問。
本当にマスメディアは「同性を好きになって当然」と報道しているのだろうか。
保守的な人は「~でなければならない」(義務・束縛)を発想の基本とする。
一方、リベラル系の人は「~であってもよい」(権利・自由)を発想の基本とする。
そのため、保守系議員である杉田水脈氏には「同性を好きになることがあっても
いい」というリベラル系報道機関の姿勢が「同性を好きになって当然」
(「当然」という言葉は、義務・束縛系のワードである)という風に
脳内変換されてしまうのではないだろうか?

で、本題に入る。
彼女は、彼女のいうパターン(「普通に恋愛して結婚できる人まで、「これ(同性愛)でいいんだ」と、
不幸な人を増やすことにつながりかねません。)とは逆のパターンが存在することに
気づいているだろうか?
それは「同性愛者が「これでいいんだ」(というか、「これしかないんだ」)と考えて、
異性愛者の異性と結婚し、結果的に自分も相手も不幸にしてしまう」というパターンである。
実際「同性愛者が異性愛者と結婚し、結果的に自分も相手も不幸になってしまう」という悲劇は
実在するのである。

具体例として、私が1980年代末に読んで影響を受けた下村満子著『アメリカの男たちはいま』には、
こんな事例が紹介されている。

(アメリカでの話である)
妻が帰宅すると、夫が電話をしている。
(夫は妻が帰宅したことにも、電話を聞かれていることにも気づかない)
話の内容から、それがすぐに夫の浮気相手との電話であることがわかる。
そして、夫は、電話相手との話の中で妻のことを「雌犬」と呼ぶ。(注1)
それを聞いた妻は、夫が浮気していること、夫が自分を「雌犬」呼ばわりした
ことに強いショックを受ける。
しかし、とどめのショックはその後に待っていた。
電話の話の内容から、夫の電話の相手(浮気相手)が男であることがわかってしまうのである。
そして、夫婦は破綻する・・・

同様のパターンが現在でもかなりあることは、
「夫は同性愛者でした」3人の女性が語ってくれたこと。(ハフポスト)
https://www.huffingtonpost.jp/2016/09/05/3-women-share-the-moment-they-found-out-their-husbands-are-gay_n_11863128.html
を見れば分かるだろう。

上で紹介したのは、どちらもアメリカの話なので、件の新潮45の
文章で欧米社会と日本社会の違いを強調する杉田水脈氏がこれを読んだら、
「アメリカ社会と日本社会は違う」と反論するかもしれない。
しかし、日本でも、ネットで「夫 同性愛」で検索すれば、夫が同性愛者で
あることに気づいて悩んでいる妻の記事が検索結果に沢山表示されるのである。
「不幸な人を増や」しているのは、むしろ、同性婚を認めない現在の制度なのでは
ないだろうか?(注2)

勿論、法的制度として同性婚を認めたところで、社会的意識が急に変わるわけでは
ないから、同性愛者が異性と結婚するということがすぐになくなるわけではないだろう。
しかし、方向性としては、いい方向に向く(不幸な結婚が減る)と思うのは、
私だけだろうか。

加えていうならば、同性愛者が同性婚できる社会は「真の」異性婚
(異性愛者同士の結婚)もしやすい社会のはずである。
同性愛者の異性愛者との「偽装結婚」が減れば、必然的に異性婚は、異性愛者同士の
結婚である確率がより高くなるからである。
そして、好きでもない異性と偽装結婚する羽目になる現在の結婚制度よりは、同性が好き
なのであれば同性結婚できる結婚制度の方が(同性婚夫婦(夫夫?婦婦?)という
新しいパターンが加わるにせよ)安定性のある結婚制度であるとは言えないだろうか?
つまり、同性婚を認めることは、同性愛者だけでなく、異性愛者の利益にもなり、
結婚制度そのものの安定にもつながるように私には思われるのだが、
机上の空論であろうか?

(注1)「雌犬」とはおそらく、"bitch"(女性に対する蔑視語)であろう。
現代日本においては「ビッチ」は英語における女性蔑視語として知られているが、
当時(1980年代前半)は、まだ分からない人が多かった事情を踏まえ、
下村満子は、「雌犬」と翻訳したのだろう。
他にも、現在では「ドメスティックバイオレンス」として日本でそのまま通じるものを、
下村満子は「家庭内暴力」と翻訳している。

(注2)
日本でも、私がかつて男性同性愛雑誌を読んだり、同性愛者ネットにアクセス
していたときに、「自分が、あるいは、自分の恋人が同性愛者なのに(女性と)
結婚する・・・」というテーマはよく見られた。
統計的データは示せないが、心証としては、
「長男なので、結婚して家業を継がなければならない」とか
「企業社会における「男は結婚(勿論女性と)して一人前」という風潮に
従わなければ」
とか
「女性と結婚すれば同性愛指向が治るのではないか」と考えるパターンが
多かったように思う。
因みに、「同性カップルで結婚した」という話題も時々あったが、それは
勿論、本当の結婚ではなく、法的には「養子縁組」であることが多かった。

2018年9月 3日 (月)

大丈夫ですか?NHKさん その1 (セクハラやパワハラは憲法上の人権の問題か?)

最初に、セクハラやパワハラ(特にセクハラ)は、男性が女性に対してするものとは限らない
ということを確認しておきたい。(従って、女性→男性のセクハラを「逆セクハラ」と
形容するのは誤りである)
しかし、ニュース等で取り上げられるのは、圧倒的に男性→女性のセクハラであるというのも
事実である。そのことを踏まえて、話を進めたい。
しばらく前に、NHKの夕方のニュースで「憲法と私たち」(正式な名称は失念)というような
特集をシリーズでやっていた。
そのとある回で「最近目立つセクハラや、パワハラは、憲法の定めた権利の軽視に原因が
あります」と言うようなアナウンサーの発言で始まった回があった。
私は、不愉快な思いをすることが予期されたので、テレビを消そうかと思ったが、
「憲法の保障する人権とセクハラ」がどういう関連があるか興味を持ち、そのまま
見続けることにした。この時点で、既にヘンな結論が予想されたが、ひょっとしたら、
私の予想外の役に立つ情報が得られるかもしれないと思った。
結論的には、予想通りのヘンな理論が待ち受けていた。(がっかりし、腹が立った)
「セクハラやパワハラは、憲法の定めた平等権の軽視から起きている」というのである。
これは「筋違い論理」であるとしか言いようがない。
なぜならば、憲法は国家に対して適用される法律だからだ。
例えば、憲法は「財産権は、これを侵してはならない(29条)」と定めているが、これは
「国(或いは地方公共団体など)が国民の財産権を不当に侵害してはならない」という意味である。
犯罪者による窃盗行為は、被害者に対する財産権の侵害ではあろうが、個人が別の個人の財産を
盗んだとしても、それは「憲法上の」財産権の問題ではない。
同じように、憲法は「法の下の平等」(番組で「平等権」と言っていたのは「法の下の平等」の
ことであろう)を定めているが、これは「国は国民を平等に扱わなければならない」という意味であって、
個人が別の個人にセクハラやパワハラを行っても、それは憲法上の人権の問題ではないのである。
大丈夫ですか?NHKさん。
これ以外にも、しばらく前に、女性専用車両関連で、NHKの言説に疑問を抱いたことがあるのだが、
長くなるので、機会を改めたい。

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