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2019年3月

2019年3月29日 (金)

積もれば大きくなるはずの小さな話(第13話) 裸をみられる恥ずかしさ

子供の頃の私は、自分の裸を他人に見られることに恐怖と恥ずかしさを感じていた。
その恥ずかしさは一種独特だった(他人に自分の領域に攻め込まれるような感じ)。

しかし、思春期以降「他人に裸を見られる恥ずかしさ」は別種のものに変化してしまった。
男性(特に私)の裸は、他人に不快感を与えるものなのだ。
私の裸は、他人が「見たい(攻め込みたい)」と思うような素敵なものではなかったのだ。
他人に裸を見せるとき、私は「他人に不快感を与えている自分の裸」を恥じるように
なった。子供の頃とは、ある意味で逆の恥ずかしさになってしまったのだ。
高校生の時、体育の授業のためだっただろうか、食事をしているクラスメイトのすぐ
近くで着替えた。その時のクラスメイトの不快そうな顔を今でも思い出す。

私がもし、女に生まれていたらどうだっただろうか。
思春期に入ると、オンナの体には、高い商品価値があり、男どもが自分(女)の体に
欲望することが分かってくる。そして、それが幼少の時の「裸を見られる恥ずかしさ」
と結びついて「見られる」ことが強い快楽になっていったような気がするのである。

実際には、私は男で、しかも醜貌恐怖症だったが、私の醜貌恐怖症は男性のシンボル(おちんちん)に
深く結びついており、女であったならば、醜貌恐怖症にはならなかった可能性が高い。
ただし、やはり、何らかの精神疾患にはなっていたような気がする。
おそらく、摂食障害あたりに罹患していた可能性が高いと自分では思っている。

2019年3月23日 (土)

積もれば大きくなるはずの小さな話(第12話) 憲法解釈に奇妙な前提を持ち込んではならない

日本国憲法は「信教の自由」を保障している。
憲法学で「信教の自由」を論ずる時によく言われるのが、明治憲法と日本国憲法の
「信教の自由」の違いである。
おそらく、現在でも多くの憲法学の講義では以下のような話をしている筈だ。
「明治憲法下でも信教の自由は保障されていた。
しかし、国家神道を前提としたもので不完全なものであった」と。
現在の日本国憲法は、男女平等、差別の禁止を保障している。
その憲法の解釈にあたっても、信教の自由同様、奇妙な前提があってはならないだろう。
「性差別とは女性差別(だけ)のことだ」という奇妙な前提を日本国憲法の解釈に
持ち込むことは「国家神道を前提とした信教の自由」同様の過ちである。

2019年3月20日 (水)

積もれば大きくなるはずの小さな話(第11話) 見たくもない政治的主張を見せられる話

私は、普段、「不愉快な思いをしてでも知りたい」という覚悟のある時(例えば、男性差別について調べる時など)以外は、
極力、不愉快に感じる可能性のあるコンテンツは避けるようにしている(精神衛生上、よろしくないので)。
それなのに、見たくもない政治的主張を見る羽目になることが
往々にしてあるのである。

例えば、あなたが楽しみにしていた購入商品がアマゾンから届いたとする。
あなたがワクワクして箱を開けたら、そこからあなたの大嫌いな政治的思想が書かれたパンフレットが
出てきたらあなたはどう感じるだろうか。
折角のワクワク感が台無しにならないだろうか?
数年前、私は何度もそういう気分を味わった。
アマゾンの箱を開けると商品と一緒に「学校へ行けないのは女の子だから」などの
「女性がこんな酷い目にあっています」系のパンフレットが入っているのである。
私は「男性に生まれることは不幸なことだ」と感じている。
それなのに、楽しみにしていた商品と一緒に「女性に生まれるのはこんなに不幸」と
いう政治的主張を書いたパンフレットを有無を言わさず送りつけるのは
例えるならば、肉食を禁ずる宗教を信じる人に肉を食べさせようとするのと
同様の行為である。
勿論、アマゾンの方には不快感を与える意図はないのだろう。
今日「女性が虐げられている(だからそれを何とかしなくてはならない)」というのは単なる政治的主張ではなく
「絶対正義」となってしまっているのだ。
(なお、最近はアマゾンの商品箱にその手のパンフレットが入っていることは無くなった)

先日(3月8日)は、google検索しようとしただけで、その日が「国際女性デー」で
あるというプロパガンダを見る羽目になった。
googleのロゴが「女性」だの「Woman」だのの文字で修飾されていたのである。
私は単に検索をしたいだけで、その日が「国際女性デー」であるなどという情報は
欲していないのにである。
3月8日が「国際女性デー」であるというのは「事実」でありプロパガンダでは
ないという考え方もあるだろう。
そこで、今度の11月19日にGoogleに注目しよう。
11月19日は「国際男性デー」である。もし、3月8日の「国際女性デー」には
「女性」をあしらった装飾をしたのに、11月19日に「男性」をあしらった修飾を
しなかったならば、そこにはやはり政治的主張があると考えるべきであろう。
という訳で、Googleさん、見てますよ。

2019年3月15日 (金)

積もれば大きくなるはずの小さな話(第10話) APPLE発表会に思う

APPLEの発表会が3月25日(日本時間26日)に開催されるそうだ。
どういう製品、どういうサービスが発表されるかはこのブログのテーマから
外れるので触れない。
しかし、APPLEの発表会を観ていつも思うのはプレゼンテーションで使われる自撮り写真が
女性ばかりだということだ。
前回のiPhone発表会では1枚だけ男性の自撮り写真があったと思うので
「全て」という訳ではないが「殆ど全て」女性の写真ばかりなのである。
確かに現実には、自撮りをするのは女性ユーザーが多いかも知れない。
しかし、APPLEという企業は「多様性重視」を掲げている筈である。
「多様性」という観点から自撮り写真が殆ど女性ばかりというのが
正しいのかどうか考えて頂きたいものである。

2019年3月12日 (火)

積もれば大きくなるはずの小さな話(第9話) 「花一匁」

私が、幼少の頃、とてもエロチックに感じていた遊びが「花一匁」である。
2組に分かれ向かい合いながら「あの子が欲しい」と要求しあい、
じゃんけん等で勝つと、勝った方が要求したこどもを相手から側から自分の陣に奪ってくることが
出来るという遊びである。
「欲しがられて、敵陣に奪われてしまう」というのは子供心に
なんとも言えずエロチックな遊びだった。
敵陣から「◯◯(私の名前)が欲しい」と言ってもらいたかった。
しかし、実際に花一匁をしていても、私が欲しいと言われることは殆ど無かったように思う。
私は「自分は欲しがられない子どもなんだ」という自己認識を持つようになった。
そんな私でも、思春期に入る直前の小学校高学年の一時期(だけ)「自分は他人から欲しがってもらえる
存在かも知れない」と感じたこともあった。
しかし、すぐに思春期に入って「女の子だけが欲しがられるに値する存在である」
「男は欲しがる側をしなければいけない」ということを思い知らされ、
大いに落胆したのである。
(しかも、フェミニズムから加害者扱いまでされるのだから堪ったものではない。)

2019年3月 3日 (日)

積もれば大きくなるはずの小さな話(第8話) いじめと校則と日本国憲法

例えば、学校における「いじめ」をイメージしてほしい。
AをいじめているBらに「いじめは駄目だよ」と諭したら
このような返事が返ってくる。
「ちゃんと多数決でAをいじめると決めたんです」
いくら多数決で決めようが、いじめはあってはならないはずである。
そこで、校則に「例え、多数決であってもいじめをしてはならない」という
条文を盛り込む訳だ。
そのいじめ禁止校則の国家バージョンが日本国憲法の人権規定である。
いじめ(人権侵害)は、例え多数決によって成立した法律であっても
あってはならない、ということだ。
ところで、学校におけるいじめの加害者と被害者は、固定的な
ものではない。
例えば、今日AをいじめているBが明日誰か(それは反撃に転じたAかも
知れないし、A以外の誰かかも知れない)からいじめられる側に
なっても何ら不思議はないのである。
もし、 Bがいじめられる側になった場合、校則はそれを放っておく
のだろうか?
そんな筈はない。
Bに対するいじめも勿論禁止である。
ところが、「男の子に対してはいじめ(人権侵害)をしても構わない」とか
「いじめ(人権侵害)は女の子が受けるものであって男の子が何をされてもそれは
いじめ(人権侵害)ではない」とか「女の子のため(という名目)ならば
男の子に何をしてもいじめ(人権侵害)ではない」という奇妙な主張をしているのが
フェミニストやエセリベラルたちなのである。

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