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2019年5月

2019年5月26日 (日)

渡辺恒夫『脱男性の時代』を読む その3

前回の記事で男性は「主体」であるが故に「美(客体)」になることが出来ないと書いた。
ということは、やはり、「主体」=「主役」=「男性」であり、
女性は「客体」=「脇役」として「モノ化」されているのではないかという主張が
フェミニストからなされるかも知れない。
だが、実は、今日において女性は「主体」になろうと思えば、簡単になれるのである。
具体例として、街には、自撮りしている女性達が溢れている。
その自撮りを止めて、スマホのカメラを男性に向ければ、その瞬間から彼女達は「主体」になりうるのだ。

もう少し、詳しく考えてみよう。
「自撮り、SNSアップ」は、『脱男性の時代』が出版された33年前は存在しなかった今日的風俗(?)の代表格であろう。
そして「自撮り、SNSアップ」をしているのは97.5%(当社推定値)女性なのである。
この「自撮り、SNSアップ」という行為の裏には「客体となりたい、ネットで客体として観賞されたい」という欲望があるのだ。
考えてみれば、女性の自撮りとは「客体自身が自らに好ましい姿を客体化」するという主体(男性)なき世界なのである。(注)
女性達は男や男社会に強要されて「自撮りSNSアップ」をしているのだろうか?
否。彼女達は自ら望んでそれをやっているのだ。
そして、それは寧ろ「主体」である筈の男性の方がどん引きするレベルにまで達しているのである。
女性のモノ化に抗議するフェミニストが対決しなければならないのは男/男社会ではなく自撮り女性である。
自撮りをやめることなど簡単なのに、それをやめない女性達だ。
フェミニストは「男社会に抗議」などという大上段なことは止めて、街で自撮りをしている女性たちに
「自撮りをやめてスマホカメラで男性を撮ろう」と呼びかけるべきだろう。
自撮りをやめて、男性を撮影し始めた時に「主体」としての女性が現れるはずだからだ。
しかし、フェミニストたちはそれをしない。
そんなことをしても、自撮り女性達から自分たちの提案が拒絶され、
挙句の果てには、女性の味方の筈の自分達が当の女性たちから疎まれるであろうことを本能的に察知しているのである。
だからこそフェミニストは「全て男のせい」にして男性を責めつづけ、
その一方で、女性達は何ら咎められることなく自撮りの快楽(自己客体化の快楽)に耽りつづけている。
それが『脱男性の時代』出版から33年経った現在の状況であるように思われる。

(注)本当に主体(男性)を必要としないかは、以前書いた「男性が全員女体嫌悪型同性愛者となった社会」を
想像してみて欲しい。
そのような社会でも彼女達は無邪気に「自撮り、SNSアップ」という行為を続けられるだろうか?
私は無理だと思う。

2019年5月22日 (水)

渡辺恒夫『脱男性の時代』を読む その2

一番最初の記事で「体系的には論じられないだろう」と断ったが、二番目の当記事で早くも、
前の記事と直接つながらない文章になってしまったことをお詫びしたい。
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この本で渡辺恒夫が一番言いたかったことは
近代/現代社会に於ける「成人男性(主体)であることと美(客体)であることの矛盾」で
あろう。
以下は私流の説明である。

成人男性(手っ取り早く言えば「おじさん」)が美しくないというのは物理的問題
(手っ取り早く言えば、ゴツゴツしているとか、毛深いとか、ハゲているとか)のようでいて
実はそうではないのである。
男性は「主体」、言い換えれば「観察者」でなければならない。
一つの「視線」として、常に客体(女)を冷静に観察しなければならず、
例え、女が快楽に我を忘れたとしても、自らは、その快楽に溺れることなく、
女を冷静に観察し、記述しつづけなければならないのだ。
決して「自分も我を忘れて快楽に溺れたい」とか「自分も美でありたい」と考えてはならない。
「主体」が我を忘れて自己陶酔したり、自らの美を主張することは、一種右翼チックな危険を孕んでいる。
その点、女性は「主体」から半歩身を引くことによって、「自分は美しい」という快楽を全面的に享受しているのだ。
(つづく)

2019年5月21日 (火)

寓話「裸の女王様」

「あのー、女王様と家来の自称男性学者、素っ裸にしか見えないんですけど。」
「フェミニズムという知的高級服は低級なバカ者には見えないのさ」

2019年5月17日 (金)

マイノリティの筈の若い女性が山の手高級住宅街に住む矛盾

最近、また「若い女性は居住地として高級な山の手を選ぶ傾向が強い」というレポートを読んだ。
私がいつも思うのが、マイノリティである筈の若い女性が高級な山の手に住むことが出来ることの矛盾だ。
この矛盾について、マスメディアは通常スルーする。
稀に言及する場合は以下のような通屈が用いられる。
「女性はマイノリティであるが故に危険な場所を避け、高級で安全な場所を選ばざるを得ない・・・」
だが、私の考えでは、マイノリティであるが故に安全な場所を選ばざるを得ないマイノリティなど
偽マイノリティである。
安全な場所など選べないのがマイノリティである。
それどころか、自己の存在自体が社会から危険と見看されてしまうのが
マイノリティである。
インターネットのアングラ系サイトにはヤバ目の地域実地レポートみたいのが存在し
「東京在日朝鮮人地帯実見レポート」とか「東京中国人地帯実見レポート」のようなものが散見される。
基本的に在日朝鮮人や中国人は日本社会に於けるマイノリティだ(最近はお金持ち系の中国人や韓国人も多いが)。
しかし、それらのサイトが「若い女性地帯レポート」を掲載することはない。
因みに外国人であっても、欧米人地帯レポートを掲載することもない。
そして欧米人地帯と若い女性地帯には高級山の手という共通点があるのである。
これは一体何を意味するのだろうか?

2019年5月12日 (日)

渡辺恒夫『脱男性の時代』を読む その1

これから、私に男性論において最も影響を与えた本である
渡辺恒夫『脱男性の時代』(勁草書房、1986)について私なりに論じていきたいと思う。
本来ならば、体系的に論じるべきなのだが、場当たり的な書きこみが続くこととなるだろう。
というのも、体系的に論じようとしていたら、ものぐさな私は、いつまでたっても書きはじめることが
出来ないからである。

さて、最初に思うのは、この書籍、『脱男性の時代』ではなく『脱近代男性の時代』という書名に
するべきだったのではないかということだ。
実際、私が最初に図書館でこの本に出会ったのは1989年(丁度30年前だ!)だったが、
一番最初に書名を見て、私はてっきり「これからは女性の時代です」という女性礼讃の本だと思ったし、
最近もネットにおいて「男をやめようという本」と紹介しているサイトを見かけた。

実際にはこの本は「これからは女性の時代だ」という女性礼讃本でも「男をやめよう」本でもない。
「近代市民革命後の男性の在り方は人間の在り方として不自然であるから、
それ以前の本来の人間らしい在り方を取り戻すべきだ」という趣旨の本なのである。
(つづく)

2019年5月11日 (土)

フェミニストは過去の男性の横暴の責任を**自ら**取るべきである

私は巷にはびこる男女差別(女性差別)と人種差別(例えば黒人差別)、民族差別を同一視するような言説を
いつも苦々しい気持ちで見ている。

例えば、A民族がB民族を500年前に迫害した歴史があるとする。
この場合、現代のB民族民が過去のA民族の行いを理由に現代のA民族民を責めても、
ある程度の妥当性はあるかも知れない。
現代のA民族民は過去のA民族民の子孫であろうし、現代のB民族民は過去のB民族民の子孫だろうからだ。

しかし、500年前、男性が女性に何かひどいことをしたとして、その責任を現代男性が負う必要があるだろうか?
上に挙げたAB民族の例のように500年前男性だった人の子孫は男性で、500年前女性だった人の子孫は
女性なのだろうか?
そんな馬鹿な!!
仮に過去に男性が女性にひどいことをしたとしても、加害者男性の子孫が糾弾側のフェミニストで、
被害者女性の子孫が被糾弾側の男性ということは十分にありうることだ。

人類の歴史は長い。
フェミニストの先祖にもきっと、女性をレイプした男性や産みたくない子供を産む羽目になった女性が
いるに違いない。
過去の男性の所業を糾弾するなら、現代の何もしていない男性を糾弾するのではなく、
罪深い男どもの子孫である自分自身を糾弾するべきである。
なぜならば、フェミニズム理論が最初に適用されるべきなのはフェミニズムとは関係ない男性(或いは女性)ではなく、
フェミニスト自身であるはずだからだ。
例えば、フェミニストの先租の女性が結婚したくもない相手と結婚したり、生みたくない子供を産む羽目に
なったことにつき、自ら責任を取って死を選んではどうか?
(これらについて「女性の権利」が守られていれば、フェミニスト自身がこの世に存在しない筈で、
つまり、フェミニストの存在自体が「悪」であり「罪」なのだから)。
そうすれば、過去の女性の無念も晴れるし、罪のない現代男性を屁理屈で責め立てる者もいなくなる。
一石二鳥ではないか?

ひょっとしたら、暴論に聞こえる人もいるかも知れない。
しかし、フェミニズムの屁理屈をフェミニズム自体に適用するとこういう理論が出来上がるのである。

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