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2020年4月

2020年4月25日 (土)

私が自分の髪の毛のプライドを取り戻すまで。

自分の髪の毛を初めて意識したのはいつの頃だっただろう?
小学生高学年の時に通っていた進学塾にH君という男の子がいた。
髪の毛が長めで笑うとエクボができるとても可愛らしい男の子だった。
ある時、彼の髪からとてもいい匂いがしたので「これ何の匂い?」と聞いたら
「リンスの匂い」という答えが返ってきた。
私が「リンス」というものを初めて知ったのはこの時である。
私は家に帰るとお風呂場に行ってみた。
すると、我が家にも全く同じ匂いのリンスがあったのである。
(40年以上前の話なので、そもそも製品のバリエーションが少ない)
私は、そのリンスを使うようになった。
頭を振ると髪からいい匂いがして、私はいい匂いのする自分の髪の毛に陶酔感を
覚えた。

しかし、思春期になって、私の自分の髪への愛情とプライドは消えていった。
柔らかだった髪はいつしか艶のないゴワゴワした髪に変わってしまった。
そして、私は女性の髪を羨むようになっていた。
女性の艶があって、柔らかそうで、それでいて強そうな髪の毛が羨ましかった。
女性たちの素敵な髪の毛に対して、私の髪は艶もなくゴワゴワしていて硬かった。
私は、その原因は性ホルモンにあると考えていた。
女性たちは、思春期以降、女性ホルモンによって素敵な髪の毛を手に入れる。
それに対して男である私は、男性ホルモンによってゴワゴワの髪の毛になってしまった
のだと。
大学生時代、パソコン通信を始めてから出入りするようになったトランスジェンダー系
ネットの書き込みでも「女性ホルモンを打つと髪の毛が女性のようにしなやかになる」と
書かれていて、私の考えに間違いはないように思われた。

しかし、それは間違っていた。
今から数年前、私は30年以上に亘った自分の考え違いに気づいたのである。
今、私の髪は素敵な髪の女性に負けないくらいサラサラで艶がある。
勿論、女性ホルモンの力など借りていない。
つまり、性ホルモンの問題ではなかったのだ。

私は、次第に男性としてのプライドを取り戻してきた。
いろいろなメディアや街中で女性の綺麗な髪を見ても、以前のような死にそうな
羨望感は感じなくなった。
例えば、PCのモニターに映る有村架純の綺麗な髪の毛を見ても余裕だ。
何故ならモニターから視線を逸らして脇にある鏡に目をやれば、そこには
彼女に負けないくらい艶のある自分の髪の毛を確認できるからだ。

世間的には、鏡を見ながら「自分の髪は有村架純にも負けない」などと妄言を
吐いている50代オヤジは不気味なのかもしれない。
でも、いいんですよ、誰にも迷惑はかけていないし、本人さえシアワセならば。

2020年4月 3日 (金)

渡辺恒夫『迷宮のエロスと文明』(1991)を読んで考えたこと

今年に入ってからまだ1回も書いていなかったが、これは私が現在、ある「挑戦」をしていて、
そちらに集中せざるを得ないからである。

さて、昨年10月に中古本で
渡辺恒夫『迷宮のエロスと文明』(新曜社、1991)
を購入した。
渡辺恒夫の『脱男性の時代』(勁草書房、1986)とその続編『トランス・ジェンダー
の文化』(勁草書房、1989)は初めて読んでからもう30年くらい経つが、これらの
続編に当たる当書は実は未読であった。

上に書いたように私は今「挑戦」をしているので、買ってから半年たった今でも
詳細に読み込んでおらず、パラパラ読んだだけなのだが、
改めて、渡辺恒夫は鋭いと思った。
例えば、1989年頃の連続幼女誘拐殺人事件を契機に始まった「おたくバッシング」について、
渡辺は以下のように喝破している。

>ここで問題としたいのは、中高年「識者」を、男女を問わず保守派から
>フェミニストらしき人物に至るまで動員してなされたマスメディアによる
>容疑者M叩きが、「おたく」叩きへと拡がるにつれ、
>おたく=若い男性=ロリコン・二次コンといった等式化がなされ、
>あたかも男性若年層全体が袋叩きの対象となり「医学的囲い込み」を受けて
>そっくりマイノリティ化されそうな形勢となって来たことである。
(同書20頁)

上記引用文はバブル当時、私の感じていた疎外感を的確に表現している。
私は12歳の頃、自分が鉄道ファンであることを誇りに思っていた。
(鉄道ファンであることはカッコいいことだと思っていた)
そして、自分は美しいと思っていた。
しかし、その10年後、バブルの頃には「鉄道オタク」(=連続幼女誘拐殺人犯と同類)
でしかなく、しかも、とても醜い自分に絶望していた。
同じ年代の女性たちがバブルの中で「蝶よ花よ」と持て囃されているのに、
若い男性である私は醜いオタク(=変質的犯罪者予備軍)でしかないことを悲しんでいた。
正に「袋叩き」の「マイノリティ」だったのである。

では、伊藤公雄は「連続幼女誘拐殺人事件」と「男性」をどう捉えているだろうか。

>社会の「女性化」(脱男性化)の波と、男たちの不安の増大という観点から見る
>とき、一九八九年という年は、きわめて象徴的な年だったのではないかと
>思われる。
>年始めには、東京で女子高校生監禁=コンクリート詰殺人事件が発覚し、
>夏には、連続幼児誘拐殺人事件の容疑者が逮捕された。
>この二つの悲惨な事件の背景には、女のモノ化=支配の対象としての女という、
>「男の論理」が存在している。
>しかも、一方は、集団での行為であり、そして他方は、単独ではあっても
>対象としてよりコントロールしやすい「幼い少女」が選択されているという点で、
>きわめて興味深い。というのも、そこには、一人の人格として、対等な異性と
>コミュニケーションすることができなくなった、現代の男の子たちの姿が
>ダブって見えてくるからだ。「男らしくあれ」(女を支配せよ)という命令と、
>すでにそうふるまうことができなくなってしまった社会とのジレンマのなかでの、
>追い詰められた男たちの、女たちへ向かっての病理的で攻撃的な「反撃」として、
>これらの事件をとらえるというのは考えすぎというものだろうか。
伊藤公雄『男らしさのゆくえ』(新曜社、1993) 97頁

伊藤公雄の見方は、実に定型的で、かつフェミニズム的である。
完全に男性をディスっていて、そこには「オタク」扱いされて
苦しんでいる若い男性への共感や同情など全くない。

因みに、渡辺恒夫の「ロリコン趣味」に関する見解は以下の通りである。

>また、やはり一九八九年に突如としてメディアに浮上した語に「おたく」なるもの
>があるが、おたく少年特有のロリコン趣味とは「男になりたくない」願望の表れで
>あって、マンガやアニメ同人誌にあふれる美少女は、他者愛の対象であるより
>むしろ同一化欲求の対象であることが、明らかになっている
(渡辺、前掲書7頁)

私自身は「オタク」ではあっても「ロリコン」ではないので、どちらが正しいと
判定はできないのだが、伊藤公雄の見解が「男性への共感」を全く欠き、
それどころか「男性に対するディスり」でしかないことは確かであろう。
「男性への共感」が全く欠けているのが伊藤公雄の「(自称)男性学」なのである。

p.s 次回は伊藤公雄が自身の論文「男らしさの挫折」(1984)を「日本の男性学の嚆矢」と
自画自賛していることに対する批判を書きたいと考えていますが、前述のような事情なので、
いつアップ出来るかは分かりません。

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