男女論

2018年8月28日 (火)

男性と半ズボン

かなり以前(10年くらい前かもしれない)の話である。
私は、ネット(場所は覚えていないが、いわゆる匿名掲示板だったかもしれない)で
こんな内容の書き込みを読んだ覚えがある。
「男性は、男の子の丈の短い半ズボンを若い女に奪われ(いわゆるホットパンツ)、
大人の男性は今や、丈の長めの半ズボンすら穿く権利を奪われようとしている。」
私は、それを読んだ時「その通りだ」と思った。
その頃には、確かに男性は、暑い真夏であっても、半ズボンを穿くのが
憚られるような雰囲気があったような気がする。

しかし、ここ数年、夏に街を歩いていると、半ズボンの男性をかなり見かける。
ひょっとしたら、男性に対する半ズボンタブーが以前に比べ薄れてきているのかも
しれない。
半ズボンの男性の中には、すね毛がぼうぼうの人もいて、以前の私だったら、すね毛ぼうぼうの足を
晒して歩く男性に強い嫌悪感を感じるとともに、嫌悪感を感じる自分自身を嫌悪していたに違いない。
(すね毛は、男性の特徴であり(勿論、すね毛が生える女性もいる。後述。)、
それを否定的に捉えることは、私も男性の一員である以上、自分自身を
否定することだからである。)
しかし、最近の私は、男性がすね毛ぼうぼうの足を晒して街を歩いてもいいじゃないかと
思えるようになった。
女は、肌を晒して街を歩くことが許される。
もし、女に「肌を晒して街を歩くな」と言ったら「女性差別」と言われるだろう。
同様に、男性に「肌を晒して歩くな」的な風潮があるのならば、それは
男性差別である。
「女は綺麗だから肌を晒してもいいが、男性は毛むじゃらだから体を隠さなければ
ならない」というような考えもあるだろう。
しかし、絶対的に女は綺麗、男は汚いというわけではない。
(例えば、去年の夏、電車で私の隣に座った足を晒した若い女には、男性より毛が細いとはいえ、
ぼうぼうのすね毛が生えていた)
あくまでも美は相対的なものである。
来年の夏は、もっと半ズボンの男性が増えればといいと思う。

2018年8月12日 (日)

「写るオンナ」と「写らないオトコ」

公園や観光地に行くと、男性が連れの女性の写真を撮っているのをよく見かける。
或いは、女性がグループで自撮りをしていることも多い。
そして、大抵の女性には、写真に写る時の「決めポーズ」がある。
モデルなどではないごくごく普通の女性であっても、写真の被写体になることにかけては
一種の「プロ」である。
逆に、女性が男性を撮っているということは非常に少ない。
たまに女性が男性を撮っているのを見かけると個人的にとても嬉しくなるが、
女性が一方的に男性を撮るということは少なく(というよりほぼ全くゼロである)、
大抵は、男性が女性を撮るのとセットである。
また、男性が自撮りをするのを見かけるのは極めて稀である。

私は、男性が女性を撮影しているのを見る度、寂しい気分になる。
勿論、それは、私に撮影相手になるような女性がいないからではない。
「男性が写真の被写体にならない」ということに、一種の疎外感を感じるのである。
(そうかと言って、私が熱心にあちらこちらで自撮りでもしているのかといえば、
そういう訳でもないのだが。)

私以外の男性は、自分自身、或いは自分の属する「男性」が写真の被写体にならないと
いうことについて、何の疎外感も感じないのだろうか。
それは、私がずっと感じ続けている疑問である。

2018年7月19日 (木)

「口裂け女」と「3大テノール」

私が小学校高学年の時、「口裂け女」という都市伝説が流行した。
(若い人は知らないかも知れない。Wikipediaに載っているので詳しく
知りたい場合はそちらを見てください)
内容は、
暗い道を歩いていると、マスクをした女が近づいてきて「私、綺麗?」と尋ねる。
「綺麗です」と答えると「これでも綺麗?」とマスクをとる。
マスクを取ると、口が大きく裂けている・・・
という内容であった。
私は、この話に本当に怯えてしまった。
母親に話すと「本当ならば、PTAから親に連絡があるわよ」と笑っていたが、
それでも怖かった。

時は下って、バブル時代。
バブルの頃は、「若い女性、女の子」を語るのが、時代を語ることだった。
(例えば、山根一眞『変体少女文字の研究―文字の向うに少女が見える』など)
当時、人気商品を語る際に「女性に人気」というフレーズは必要不可欠だった。
そして、その中で、私は自分が好きなものや、自分が体験したことが、
どんどん「女のモノ、女の体験」として語られていった。
私は、その度に、何か大事なものを奪われていくような苦痛を感じた。
(但し、私はいわゆる「変態少女文字」は書いたことがないので、誤解のないように。)
その中の一つに、「口裂け女」もあった。
何かの本(マーケティング雑誌だったかも知れない)で「口裂け女」は
女の子が過去に体験した都市伝説として語られた。
そして、女の子(女性)にとって、口裂け女がどのような意味を持っていたか、
何故、彼女たちに、口裂け女がフォークロアとして流行したのか、が書かれていた。
そこには、「口裂け女」に恐怖した男の子たち(口裂け女を怖がっていた男の子は
私だけではない)に関する記述はなかった。
それを書いた人物は、口裂け女伝説が男の子にも流行したことを知らなかったので
あろうか?
いや、書き手は、そもそも男の子には関心がないのである。
口裂け女が男の子にも流行ろうが、流行るまいがどうでもいいのである。
女の子や若い女性だけが関心を持つに値する存在なのだ。
そのようにして、バブルの頃、私は、興味を持たれるに値しない「男」である自分、
無価値な自分を痛感して過ごしたのだった。

その一方で、マスメディアを見れば「女性が蔑視されている、女性が無視されている」
という論調のオンパレードで、気が狂いそうだった。
(ちょっと関係ないかも知れないが、彼らのダブルスタンダードぶりは、例えば、
朝日新聞社のやっていることを見ればわかる。
「女性の性を商品化するな」とか「美女コンテストは女性差別だ」いうフェミニズム的
姿勢に同調するかのような論調を取りながら、その一方で、週刊朝日の女子大生表紙
シリーズは平然と続けるのである。)

以前、紹介したが「好きなものに男女の差はないはずなのに、日本社会で
「女性に人気」というフレーズが乱発されるのは不思議」という趣旨の外国人による
寄稿が朝日新聞に載ったのは、1995年のことである。
私が「女性に人気」ノイローゼになってから10年近くが経過していたから、
「何を今更」感があったが、掲載されないよりはマシだった。

その頃、私が買ったCDが「三大テノール」(ドミンゴ、カレーラス、パバロッティ)の
リサイタルのCDだった。「女性は女性であるというだけで注目されるのに、男性は
全く注目されない」という苦しみの中、3大テノールは、「男性である」のに、
(或いは「男性であるから」)注目されるという稀有な例に見えたのである。

翻って、今は、「女性に人気」というフレーズをあまり見かけない。
「女性に人気」というフレーズそのものが減ったのか、それとも、私自身が、そういう
フレーズを乗せる媒体(新聞雑誌やテレビ)を見なくなったのが原因なのか。
おそらく「女性に人気」というフレーズ自体が、減っているとは思う。
但し、「女性に人気」であることが不要になったのかといえばそんなことはなく、
むしろ、語るまでもない当たり前の前提となった、と解釈したほうが良さそうである。

2018年6月13日 (水)

もし、世の中の男性が全員ゲイになったなら

私のちょっとした知り合いに、20代の若い女性がいる。
彼女が、他の人と任天堂3DSで対戦ゲームをしているのを見ていたときのこと。
彼女(ゲームをしながら) 「ちょっと待って、そこダメ、ちょっとちょっとヤメて」
その声に私はエロを感じた。(私だけがそう感じた訳ではなく、周りにいた他の人も、
「◯◯さん、エロい感じになってますよ」と言っていた)
ただ対戦ゲームをしているだけで、女性はエロチックな雰囲気を出すことが出来るのだ。

また、それとは別の知り合いの女性の話だが、ジーンズを履いていたその女性が
前かがみにしゃがみ込んだ時のこと。
お尻がジーンズの隙間から見えてしまっていた。
私は、慌てて目を逸らしたが、同時に猛烈な羨望感と敗北感と腹立ちを感じていた。
(かなり以前書いたが、私が体を露出させた女性から目を背ける時、感じるのは
猛烈な敗北感である。)
彼女が自分から勝手に座り込んで、お尻を露出させたのである。
それなのに、何故、私の方が罪悪感を感じた挙句、目を逸らさなければならない
のだろうか。
因みに、男の私が同様のことをしても(対戦ゲームをしながら
「そこダメ、ヤメてソコ」と言っても、或いは、ジーンズからお尻を露出させても)、
他人にエロチックな印象を与えることなど出来ず、
それどころか、嫌悪感を与えてしまうだろう。
そう思うと、本当に悲しくなるのである。

だから、私は、30年も前から「出来るものならゲイになりたい」と願って来た
(但し、最近は、あまり感じなくなっているが)。
単に私に留まらず、世の中の男性全てが女体嫌悪型のゲイになればいいと思う。
約30年前、ゲイのパソコン通信ネットに入っていた時、参加者の一人(当然ゲイ)が
「ネトネトした女の肌ほど気持ち悪いものはない」という書き込んでいるのを見た話を
今年もそろそろ、若い女性が肌を露出させて歩く季節になってきたが、世の中の男性が
全て、そういう感性(ネトネトした女の肌ほど気持ち悪いものはない)を持つようになれば、
肌を露出させた女性は「うわー、何あれ?気持わるーい」という視線で見られるように
なるだろう。
そうなった時、彼女たちは初めて気づく筈だ。
肌を露出させた自分たちが、男性たちの視線を浴びるということは、
フェミニストがいうような「性的に搾取される」というマイナスのことではなく、
それどころか大変な特権であったということに。

2018年4月 9日 (月)

「ドラキュラと美女の性愛論」(そして、ドラキュラと美女の力学)

以前も書いたが、私は、性愛の関係性は「ドラキュラと美女」に例えられると考えている。
通常は、男性(ドラキュラ)が女性(美女)の血を吸う。
ドラキュラと美女、どちらが加害者でどちらが被害者かといえば、
形式上は、ドラキュラが加害者で美女が被害者であろう。
しかし、実際には「血を吸われる」のは快楽なのである。
(だから、私は、思春期以降、常に「血を吸われる」女性を羨んで来た。
ただし、一方で「血を吸われるのが嫌い」という女性がいるのも確かだろう。)
フェミニストは、ドラキュラである男性を「加害者」として糾弾してきた。
「血を吸われる美女」を羨んで来た私は、フェミニストから「ドラキュラ」(加害者)と
して、糾弾されるのがたまらなく不愉快だ。
勿論、「ドラキュラ立ち入り禁止」(e.g. 女性専用車両)も不愉快で仕方ない。
ところが、抗議をすると「保守的男権主義者」のレッテルを貼られてしまうのである。
(「ドラキュラが自分の思い通りに美女の血を吸うのは正当だ」という主張なら、
「保守的男権主義者」扱いも間違ってはいないだろうが、私は「ドラキュラ扱い
されるのは不当だ」と主張しているのである)

では、男性はドラキュラであることをやめていいのか、というとそうではない。
美女(女性)にとって都合のいいドラキュラにならなければならないのである。
本来は、ドラキュラ(男性)が「こういう風に血を吸いたい」と思う通りに
美女の血を吸うものである。
しかし、現代のドラキュラは、女性が「こういう風に血を吸われたい」という思う
通りに血を吸わなければならない。主導権が逆転している訳だ。
(主導権が逆転しているとは言っても、決して女性がドラキュラに、男性が美女に
なるわけではない。)
他人同士である以上、ドラキュラ(男性)は美女(女性)がどのような血の吸われかたを
されたいか、一生懸命推測するしかない訳だが、失敗すると「セクハラ」と
糾弾されることになる訳である。
(勿論、いまだに「ドラキュラの方に主導権がある」と考えて行動するシーラカンスの
ような男性も糾弾対象となる。)

現代男性は、一生懸命、美女(女性)の望むような血の吸い方をし、フェミニストから
加害者として糾弾されたら「ああ、自分はなんと悪いドラキュラなのだろう」と
反省することが求められる。
(それが出来れば、フェミニスト様からは「男としてはマシな部類」と評価していただけることだろう。)
勿論、男性は間違っても、「自分も血を吸われる側(美女役)がいい」などと考えては
いけないのである。

ところで、性愛には「ドラキュラ(男性)が美女(女性)の血を吸う」という以外にも
パターンがある。
「少年愛」は、美女役を思春期の少年が務めるものだ。
(美女役が、必ずしも女性である必要はないのである)。
成人男性(ドラキュラ)が少年(美女)の血を吸うのが「少年愛」である。
但し、未成年対象の性愛がタブーとなっている現代では、「少年愛」も
タブーである。

一方、美女役が登場しないのが「成人男性同性愛(ゲイ)」である。
ゲイ男性(ゲイドラキュラ)は美女的なものにエロスを感じないのである。
彼らにとっては、「ドラキュラらしさ」こそがエロであり、
従って性愛は「ドラキュラ同士の血の吸い合い」となる。
(当事者双方ともドラキュラなので「ドラキュラが一方的に美女の血を吸う」というような
一方通行の関係にならない)
男同士の性愛であっても、「少年愛」と「成人男性同性愛」の構造がかなり異なるのが
お分かりいただけるだろうか?

以上が私の考える「ドラキュラと美女の性愛論」である。

2017年6月 4日 (日)

「女性の性の商品化」の最大の顧客は女性自身である。

女性を商品化することに反対を叫ぶフェミニストは多い。
しかし、皮肉なことだが、今日、「商品としての女性」の一番重要な購買層は
女性自身である。
かつて、芦屋令嬢誘拐事件をきっかけにお嬢様ブームが起こったことがある。
豊かな階層に生まれる確率は男女同じ筈なのだが「お嬢様ブーム」はあっても
「おぼっちゃまブーム」はないのは、ある意味象徴的である。
商品化された女性イメージ(例えば「お嬢様」)を、男性に対しては「あのお嬢様が脱いだ!
総力グラビア」という形で「売る」。
女性に対しては「こういう服を着て、こういう店に行けばあなたもお嬢様」という形で
「売る」のである。
そして、男性に対して「女を売る」よりも、女性に対して「女を売る」ことの方が重要に
なった時代、それが1980年代に喧伝された「女性の時代」の正体である。
そのような1980年代的「女性の時代」において最もアナクロだったのが「女性の商品化
反対」を叫ぶフェミニストだったのは皮肉な話である。
ただし、1990年代後半になって、フェミニズムが政治権力と一体化して盛り返してくる。
それが「男女共同参画」である。

2017年3月25日 (土)

小田急線を例に考える「主力は男、主役は女」

東京に小田急線という私鉄が走っている。
小田急線には2タイプの電車がある。
主力の通勤形電車と特急ロマンスカーである。

通勤形電車は、昔は白く塗装されていたが、今は、銀色の金属むき出しで走っている。
昔の電車は鋼鉄製で色を塗らないと錆びてしまったのだが、現在の通勤形電車は
錆びないステンレスでできているので、色を塗る必要がないのである。
通勤形電車の正面デザインは、何の工夫もない、のっぺらぼうデザインである。
変に凝ったデザインにしてしまうと製造費用がかかる上に、メインテナンスが大変なのだ。
客室の窓カーテンもいつの間にか無くなってしまった。
窓にUVカットガラスを採用することにより、メンテナンスに手間暇のかかるカーテンを
無くしたのである。
客室の照明はもちろん直接照明で蛍光灯がむき出しである。
車号表示も今ではプレートから安っぽいシールに変わった。
通勤形電車は、小田急線の主力として、効率よく働き、大量の人を運ぶために
このような合理化を進めてきたのである。

それに対して、ロマンスカーは、今でも塗装をしている。
正面デザインも流線型である。
室内は、華美な装飾が施され、間接照明で、勿論、カーテンもついている。
メンテナンスは、かなり手間暇がかかるだろう。
しかし、だからこそ、ロマンスカーは小田急線の主役として君臨できるのである。

例え小田急線の主力として小田急線利用者の大半を運んでいるのが通勤形電車だと
しても、主役はロマンスカーなのである。

もちろん、男女で言えば、通勤形電車が男、ロマンスカーが女である。
「主力は男だが主役は女」なのだ。
違うだろうか?
一体、通勤形電車(男)が、小田急線(社会)の主力だからと言って、そのために
車体(肉体)の合理化ばかりをする羽目になって、どんどん安っぽくなってゆき、
一方で、ロマンスカー(女)は豪華で華美な存在として、持て囃されるという状況下で、
通勤形電車(男)が優位で、ロマンスカー(女)が劣位であるといえるのだろうか?

2017年2月20日 (月)

「漢」=「おとこ」?、「漢字」=「マッチョ」?

<漢>と書いて<おとこ>と読ませることがある。
この<漢>(おとこ)という表現を好む男性は、男性であることに適応している人である。
そして、私は、勿論この表現が嫌いである。

そこで、思い出すのが、昔、パソコン通信で男性同性愛者のコミュニティに参加して
いた時に見掛けた筋肉マッチョ好きのゲイ男性の文章である。
彼の性的空想を書いた文章なのだが「小さな水着しか身につけていない筋肉むきむきの
マッチョがペニスを怒涛させながらプールサイドを歩くと、皆が彼のマッチョボディに
賞賛の眼を向ける・・・」というような内容だった。
しかし、彼の文章には、中身以外の問題として、一見しただけで、目につく特徴が
あったのである。
彼の文章は、文章に占める漢字の割合が異常に高かったのだった。
文章が漢字だらけで、とても堅い印象を醸していたし、ちょっと異様な感じですらあった。
私には、彼が筋肉マッチョ好きなゲイであるということと、彼の文章が漢字だらけである
ことの間には深い関係があるように感じられた。
恐らく、彼にとって漢字は筋肉ムキムキのマッチョと結びつくエロチックな文字なのでは
ないだろうか。
やはり、漢字=男、<漢>=<おとこ>なのだろうか。

ところで、わたしは、もちろん、ひらがなのほうがすきである。
だからといって、ひらがなばかりでぶんしょうをかいていたら、
あたまのわるいいんしょうになってしまうので、そんなことはしないのですが。

2017年1月22日 (日)

「鶴」と「亀」

「鶴と亀」と言えばめでたい動物の代表格である。
私は、女性は鶴だな、男は亀だな、と感じる。
鶴は、優雅で美しい。
亀は、グロテスクでいかにもあか抜けず、どんくさい。
私は、ずっと、鶴(女性)の美しさ、エロティシズムを羨んできた。

しかし、男性をエロティックと見做す人々も存在するのである。
それが男性同性愛者である。
私は、男性も美しくエロティックな鶴でありうる、ということを
確認したくて、80年代末期、当時普及し始めていたパソコン通信で
ゲイのコミュニティに参加した。
しかし、そこで気づいたことは、男性同性愛者は確かに男に
エロティシズムを感じるが、だからと言って、男が鶴になるわけでは
ないという事だった。
男性同性愛者にとっても、男はやっぱり亀なのである。
そして、亀らしさこそが彼らにとってはエロなのだ。
私の願望と彼らの欲望は、その根本に於いて、見事に
すれ違っていた訳である。

2016年10月19日 (水)

「男性服で女っぷりを上げる」はアリなのに「女性服で男っぷりを上げる」はナシか?

かなり前の記事で、昔本屋で恥ずかしい思いをしながらCanCamなどの女性誌を買って
いたことを書いた。(2002年頃から買っていたと書いたが、2000年のCanCamが、数冊
出てきたので、その頃から買っていたようだ)
その後、アマゾンが雑誌を扱うようになり、本屋で恥ずかしい思いをする必要はなくなった。
そして、電子書籍の時代になって女性誌も電子版が出るようになり、本棚を
女性誌が圧迫することもなくなった。
(以前、光文社の女性誌は電子版が出ていないと書いたが、現在は電子版が
出るようになっている)。
そして、今では、携帯電話会社の提供するコンテンツサービスにより、月432円で
様々な雑誌(当然女性誌を含む)のダイジェスト版が読めるようになった。
定額・低額で沢山の女性誌に目を通せるような環境になっているのである。
(本来の読者である女性たちにとっては、電子版ではジャニーズタレントの写真に
マスクをかけられてしまうのが大問題であろうが、私はジャニーズタレントには
興味がないのでどうでもいい)。

そして改めて気づくのが、女性誌には頻繁に「カッコいい女」とか「ハンサムウーマン」と
言うフレーズが登場することである。
言うまでもなく「かっこいい」とか「ハンサム」と言うのは本来男性を形容する言葉である。
それらの形容詞を女性は我がものとしたのである。
そうかといって、女らしさを失ったわけでもなく「フェミニン」とか「レディ」というワードも
頻繁に登場する。
挙句の果てには「メンズ服で女っぷりを上げる」と言うようなコピーまで登場するのである。
男性に果たして、「女性服で男っぷりを上げる」という選択肢があるだろうか?
(厳密に言えば存在しないわけではない。いわゆるドラッグクイーンである。
ドラッグクイーンは女性服を着ることによって、逆に男性であることを強調している一例
であろう。ただし、ドラッグクイーンは、失礼ながら、色モノとして扱われているのが実情で
ある。「男性服で女っぷりを上げる」の方は逆説ではあるが色モノでは無い。)
あまりにも不公平だと感じるのは、おかしいのだろうか?

最近のコメント

リンク集

  • Nikkoh の 徒然日記
    男性同性愛者、Nikkohさんのブログです。マスキュリズムについての記事が大変参考になります。「手弱男」として、弱者男性の問題についても関心をお持ちです。
無料ブログはココログ

Since 2014

  • Since August 11/2014
    Tokyo,JAPAN