男女論

2017年6月 4日 (日)

「女性の性の商品化」の最大の顧客は女性自身である。

女性を商品化することに反対を叫ぶフェミニストは多い。
しかし、皮肉なことだが、今日、「商品としての女性」の一番重要な購買層は
女性自身である。
かつて、芦屋令嬢誘拐事件をきっかけにお嬢様ブームが起こったことがある。
豊かな階層に生まれる確率は男女同じ筈なのだが「お嬢様ブーム」はあっても
「おぼっちゃまブーム」はないのは、ある意味象徴的である。
商品化された女性イメージ(例えば「お嬢様」)を、男性に対しては「あのお嬢様が脱いだ!
総力グラビア」という形で「売る」。
女性に対しては「こういう服を着て、こういう店に行けばあなたもお嬢様」という形で
「売る」のである。
そして、男性に対して「女を売る」よりも、女性に対して「女を売る」ことの方が重要に
なった時代、それが1980年代に喧伝された「女性の時代」の正体である。
そのような1980年代的「女性の時代」において最もアナクロだったのが「女性の商品化
反対」を叫ぶフェミニストだったのは皮肉な話である。
ただし、1990年代後半になって、フェミニズムが政治権力と一体化して盛り返してくる。
それが「男女共同参画」である。

2017年3月25日 (土)

小田急線を例に考える「主力は男、主役は女」

東京に小田急線という私鉄が走っている。
小田急線には2タイプの電車がある。
主力の通勤形電車と特急ロマンスカーである。

通勤形電車は、昔は白く塗装されていたが、今は、銀色の金属むき出しで走っている。
昔の電車は鋼鉄製で色を塗らないと錆びてしまったのだが、現在の通勤形電車は
錆びないステンレスでできているので、色を塗る必要がないのである。
通勤形電車の正面デザインは、何の工夫もない、のっぺらぼうデザインである。
変に凝ったデザインにしてしまうと製造費用がかかる上に、メインテナンスが大変なのだ。
客室の窓カーテンもいつの間にか無くなってしまった。
窓にUVカットガラスを採用することにより、メンテナンスに手間暇のかかるカーテンを
無くしたのである。
客室の照明はもちろん直接照明で蛍光灯がむき出しである。
車号表示も今ではプレートから安っぽいシールに変わった。
通勤形電車は、小田急線の主力として、効率よく働き、大量の人を運ぶために
このような合理化を進めてきたのである。

それに対して、ロマンスカーは、今でも塗装をしている。
正面デザインも流線型である。
室内は、華美な装飾が施され、間接照明で、勿論、カーテンもついている。
メンテナンスは、かなり手間暇がかかるだろう。
しかし、だからこそ、ロマンスカーは小田急線の主役として君臨できるのである。

例え小田急線の主力として小田急線利用者の大半を運んでいるのが通勤形電車だと
しても、主役はロマンスカーなのである。

もちろん、男女で言えば、通勤形電車が男、ロマンスカーが女である。
「主力は男だが主役は女」なのだ。
違うだろうか?
一体、通勤形電車(男)が、小田急線(社会)の主力だからと言って、そのために
車体(肉体)の合理化ばかりをする羽目になって、どんどん安っぽくなってゆき、
一方で、ロマンスカー(女)は豪華で華美な存在として、持て囃されるという状況下で、
通勤形電車(男)が優位で、ロマンスカー(女)が劣位であるといえるのだろうか?

2017年2月20日 (月)

「漢」=「おとこ」?、「漢字」=「マッチョ」?

<漢>と書いて<おとこ>と読ませることがある。
この<漢>(おとこ)という表現を好む男性は、男性であることに適応している人である。
そして、私は、勿論この表現が嫌いである。

そこで、思い出すのが、昔、パソコン通信で男性同性愛者のコミュニティに参加して
いた時に見掛けた筋肉マッチョ好きのゲイ男性の文章である。
彼の性的空想を書いた文章なのだが「小さな水着しか身につけていない筋肉むきむきの
マッチョがペニスを怒涛させながらプールサイドを歩くと、皆が彼のマッチョボディに
賞賛の眼を向ける・・・」というような内容だった。
しかし、彼の文章には、中身以外の問題として、一見しただけで、目につく特徴が
あったのである。
彼の文章は、文章に占める漢字の割合が異常に高かったのだった。
文章が漢字だらけで、とても堅い印象を醸していたし、ちょっと異様な感じですらあった。
私には、彼が筋肉マッチョ好きなゲイであるということと、彼の文章が漢字だらけである
ことの間には深い関係があるように感じられた。
恐らく、彼にとって漢字は筋肉ムキムキのマッチョと結びつくエロチックな文字なのでは
ないだろうか。
やはり、漢字=男、<漢>=<おとこ>なのだろうか。

ところで、わたしは、もちろん、ひらがなのほうがすきである。
だからといって、ひらがなばかりでぶんしょうをかいていたら、
あたまのわるいいんしょうになってしまうので、そんなことはしないのですが。

2017年1月22日 (日)

「鶴」と「亀」

「鶴と亀」と言えばめでたい動物の代表格である。
私は、女性は鶴だな、男は亀だな、と感じる。
鶴は、優雅で美しい。
亀は、グロテスクでいかにもあか抜けず、どんくさい。
私は、ずっと、鶴(女性)の美しさ、エロティシズムを羨んできた。

しかし、男性をエロティックと見做す人々も存在するのである。
それが男性同性愛者である。
私は、男性も美しくエロティックな鶴でありうる、ということを
確認したくて、80年代末期、当時普及し始めていたパソコン通信で
ゲイのコミュニティに参加した。
しかし、そこで気づいたことは、男性同性愛者は確かに男に
エロティシズムを感じるが、だからと言って、男が鶴になるわけでは
ないという事だった。
男性同性愛者にとっても、男はやっぱり亀なのである。
そして、亀らしさこそが彼らにとってはエロなのだ。
私の願望と彼らの欲望は、その根本に於いて、見事に
すれ違っていた訳である。

2016年10月19日 (水)

「男性服で女っぷりを上げる」はアリなのに「女性服で男っぷりを上げる」はナシか?

かなり前の記事で、昔本屋で恥ずかしい思いをしながらCanCamなどの女性誌を買って
いたことを書いた。(2002年頃から買っていたと書いたが、2000年のCanCamが、数冊
出てきたので、その頃から買っていたようだ)
その後、アマゾンが雑誌を扱うようになり、本屋で恥ずかしい思いをする必要はなくなった。
そして、電子書籍の時代になって女性誌も電子版が出るようになり、本棚を
女性誌が圧迫することもなくなった。
(以前、光文社の女性誌は電子版が出ていないと書いたが、現在は電子版が
出るようになっている)。
そして、今では、携帯電話会社の提供するコンテンツサービスにより、月432円で
様々な雑誌(当然女性誌を含む)のダイジェスト版が読めるようになった。
定額・低額で沢山の女性誌に目を通せるような環境になっているのである。
(本来の読者である女性たちにとっては、電子版ではジャニーズタレントの写真に
マスクをかけられてしまうのが大問題であろうが、私はジャニーズタレントには
興味がないのでどうでもいい)。

そして改めて気づくのが、女性誌には頻繁に「カッコいい女」とか「ハンサムウーマン」と
言うフレーズが登場することである。
言うまでもなく「かっこいい」とか「ハンサム」と言うのは本来男性を形容する言葉である。
それらの形容詞を女性は我がものとしたのである。
そうかといって、女らしさを失ったわけでもなく「フェミニン」とか「レディ」というワードも
頻繁に登場する。
挙句の果てには「メンズ服で女っぷりを上げる」と言うようなコピーまで登場するのである。
男性に果たして、「女性服で男っぷりを上げる」という選択肢があるだろうか?
(厳密に言えば存在しないわけではない。いわゆるドラッグクイーンである。
ドラッグクイーンは女性服を着ることによって、逆に男性であることを強調している一例
であろう。ただし、ドラッグクイーンは、失礼ながら、色モノとして扱われているのが実情で
ある。「男性服で女っぷりを上げる」の方は逆説ではあるが色モノでは無い。)
あまりにも不公平だと感じるのは、おかしいのだろうか?

2016年8月 2日 (火)

「肌見せ」という女性の切り札に男性が対抗する方法

昔は女はエロチックであるがゆえに肉体を隠さなければいけなかった。
(ただし、隠れているが故のエロスと言うものも生じていたことだろう。)
そして、男が、欲望してはいけない女に欲望した場合は、欲望させてしまった女が
悪いものとされた。
ところが、現代は、女はエロチックであるがゆえに肉体をどんどん晒してもよく、
もし男が肌を晒す女に欲望してしまった場合には、欲望した男が悪いということに
なっているのである。
このような状況は、特に、女性を羨む私のようなタイプの男にとっては地獄である。

そこで、私の思いつく最良の対処法は、男が女体に欲望するのをやめることである。
例えば、私はかつて(そうとう昔)男性同性愛者のパソコンネットで「女の体ほど
ねっとりとして気持ち悪いものはない」という書き込みを見たことがある。
(ゲイが全員そういう感じ方をするわけではない)
もし、男性が彼のような感じ方を身につけてしまったらどうなるだろう?

フェミニズムは、男が女に欲望するという状況をあたかも女性にとって地獄で
あるかのように表現する。
だが、私に言わせれば、女性にとっての本当の地獄は男が女に欲望しなくなった時に
始めるだろう。
現代社会で女の体が持っている神通力は消え、いくら着飾っても、いくら肌をさらしても
「気持ち悪いもの晒すな」という嫌悪の目線しか返ってこなくなるのである。
「欲望した男が悪い」の法則も、女に欲望する男がいなくなれば無意味となる。

勿論、現実に男が女に欲望しなくなることは有り得ない。
しかし、カードの一つとして、提示し続ける事は出来る筈だ。
例えば、一地方が国家から不利益を押し付けられそうな時、国家に対し
「不利益を押し付けると独立するぞ」という選択肢を提示することは、
国家との交渉を有利にすすめる上で極めて有効である。
例え、客観的には独立が不可能な状況であってもである。
同じように、女性に対し「男性に不利益を押し付けるならば、お前たち女に欲望するの
やめちゃうよ?」というカードをちらつかせることは極めて有効なように思われる。
私は、ここ30年間位、そう考え続けているのだが、世の男性たちは、その戦略を取らない。
そもそも、そういうカードが存在することにすら気づかないらしいのだ。
そして、女性の「肌見せ」カードに喜々として翻弄され続けるのである。

2016年7月23日 (土)

例え話

とても豊かで美しい土地を持つA国を、貧しく汚い土地しかないが、力と征服欲だけは
強いB国が征服しました。A国の美しさは、B国の征服欲を掻き立てたのです。
という訳で、征服者はB国、被征服者はA国なのですが、
では価値があるのは一体どちらの国なのでしょう?
私は、勿論、A国だと答えます。
言うまでもなく、A国が女で、B国が男です。
私は、B国民として、美しいA国を征服することに満足するのではなく、
B国自体に美しく豊かな国になってもらいたいのです。

2016年7月17日 (日)

男性は「絵にならない存在」のままでいいのか? 前編

「現代社会において、男性は『絵にならない』存在である」と喝破したのは
渡辺恒夫である。
ここで言う「絵にならない」とは、もちろん2つの意味をかけあわせている。
1つは、「絵画で描かれたり、写真の被写体にならない」と言う意味である。
もう1つは「様にならない、格好悪い、美しくない」という意味である。
そして、この2つの「絵にならない」の間には、深い関連性があるのである。
一般的には、男性は「様にならない、かっこ悪い、美しくない」(絵にならない)存在だから
「絵画に描かれたり、写真の被写体にならない」(絵にならない)のだと見做されている。
しかし、それとは逆に「絵画に描かれず、写真の被写体にもならない」(絵にならない)ことに
よって「様にならない、かっこ悪い、美しくない」(絵にならない)存在になってしまう、という
側面が存在すると思うのだ。
(つづく)

2016年1月21日 (木)

是非、車内広告に半裸の男性を!

時々、電車内などでの肌を露わにした女性を使った広告への嫌悪を表明する
フェミニストがいる。
その感覚は私としても分からない訳ではない。
だが決まって彼女たちがする「男性だって、電車の広告が半裸の男性だったら
嫌でしょう?」という問いかけにはこう答える。
「いいえ、嫌ではありません」と。

半裸の女性が広告になるのは、女性の裸が美しくエロチックだからである。
(勿論、特に男性誌の広告おいては男性の性欲を刺激する目的もあるだろう。)
私は、自分の肉体に美しくエロチックな存在であって欲しいから、
電車内の半裸の男性の広告は大歓迎である。

また、今日、都会の主役は女性(特に若い女性)で、私はそのことに不快感を
持っているのだが、都会の主役が若い女性であるということと、
電車内の広告に肌を露わにした若い女性があしらわれることの間には
深いつながりがある。
もし、電車内の広告に半裸の若い男性が当たり前に使われる時代になれば
きっと、都会の主役は若い男性になるだろう。
都会は、若い男性が魅力的な自分を見せびらかす為の舞台になるだろう。
そして、商業施設は、若い男性が自分を飾るための衣服やアクセサリーを買うための
場所になり、商業施設の経営者は、いかに若い男性を集客するかに血眼になるので
ある。

どこに嫌がる理由がある?
むしろ大歓迎である。

2015年8月 5日 (水)

「女は持って生まれた美醜で人生が決まるが、男は頑張れば何にでもなれる」か?

15年ほど前、フェミニストのグループと論争をしたことがある。
その中で、あるフェミニストがこんなような事を言った。
「女は、持って生まれた美醜によって人生が決まるのに、
男は、頑張れば何にでもなれる・・・」
私は、彼女のこの発言は、嘘偽りのない彼女の心の叫びであると
感じたので、むげに否定することはしなかった。
しかし、こう感じたのも事実である。
「男が頑張れば何にでもなれるのだとしたら、女は頑張れれば
いくらでも美人になれるんではないの?」と。
要するに、男だって、持って生まれた才能というものによって人生を
左右され、頑張れば何にでもなれるという訳ではないという事である。
男の領域の方が広くて、様々な可能性を探求できるというのは、事実ではあろう。
しかし、女が専有する領域が(例え、男性より狭いとしても)、人間の
根本に関わる中核的な領域だとすれば、女の方が損であるとは言えないのである。
しかも、現代において、男は、自分の領域を女に開放することを強いられる。
(開放しないと性差別者扱いされる)
逆に、女の領域は、女の聖域のままだとしたら、不公平感を感じる男が現れるのは
当然である。

最近のコメント

リンク集

  • Nikkoh の 徒然日記
    男性同性愛者、Nikkohさんのブログです。マスキュリズムについての記事が大変参考になります。「手弱男」として、弱者男性の問題についても関心をお持ちです。
無料ブログはココログ