映画・小説・音楽・コミック

2017年4月 5日 (水)

音楽:ジョン・レノン(John Lennon) "Woman is the nigger of the world"

男性解放運動が女性解放運動より一層困難なのは
「人種差別と男女差別は違う」ということを人々に理解させることから
始めなければならないからである。
人種差別と男女差別を混同する人は多い。
そして、99%の人は男性=白人、女性=黒人という思い込みをしてしまうのである。
(そして、勿論、フェミニズムや「自称」男性学(実態は男性フェミニズム)は、
その思い込みを利用しようとする)

私が10代の頃に読んだ本には「在日朝鮮人男性は日本社会における
在日朝鮮人差別に怒るのに、家庭の中では女性(妻)を差別する」と言うようなことが
書いてあって、私はとても腹を立てた。
「在日朝鮮人差別と女性差別を一緒くたにするな」と。
(この場合、人種差別というよりは民族差別だが)

それと同じ文脈で批判されなければならないのが
ジョン・レノンの Woman is the nigger of the worldという曲である。
1970年代前半の曲で、勿論、1970年代のウーマンリブの影響を受けて書かれた曲で
ある。
邦題は「女は世界の奴隷か!」となっているが、niggerが黒人の蔑称であることは
言うまでもない。直訳すれば、「女は世界の黒人(の蔑称)である」となるだろう。
歌詞に
We make her paint her face and dance

とあるが、これは化粧と「有色」を引っ掛けていると思われる。
男は女に色を塗らせて(化粧をさせて)黒人にしている、という訳だ。

私はジョン・レノンは嫌いではないのだが、この曲の「独りよがり反省」は、
現代日本における「自称」男性学と共通であり(つまり「自称」男性学は
40年以上前のアメリカウーマンリブから全く進歩していないということだ)、
ただただ不快である。
ところで、歌詞に、

We insult her every day on TV
And wonder why she has no guts or confidence
我々(男)は、女性を毎日テレビで侮辱し、何で女には根性がないんだと嘆く

とある。
全く皮肉な歌詞である。
なぜなら、私は、1980年代から1990年代にかけて、しばしばテレビで女が男を侮辱し、
女が男に「男のくせに根性なし!」と罵倒するのを見てきたからだ。

だから、私は、天国のジョンにこの曲の題の変更を提案をしたい。
Man is the nigger of the world
(男は世界の黒人である)
と。

2017年3月15日 (水)

赤毛のアン

私が子供の頃、日曜夜7時半から世界名作劇場というアニメが放送されていた。
特に有名な作品は「アルプスの少女ハイジ」、「フランダースの犬」あたりだろうか。
私が、小学校高学年の時、この時間枠で「赤毛のアン」が放映された。
私は、赤毛のアンの世界にすっかり魅了されてしまった。
私の母親が赤毛のアンの小説のシリーズを文庫本で持っていたので、
それを借りて読み始めた。
ある夜、一冊読み終えて、次の巻を借りようと母親の部屋に行ったら、
母親は既に寝ていたのを起こされて不機嫌なこともあったのだろうが
当時の私の想像を絶することを言ったのである。
「男の子が赤毛のアンなんて読むんじゃないの!!」
ショックだった。全く理解できなかった。
今思えば「赤毛のアン」は女性向けのナルシズムの世界なのだから男の子が読むもの
ではない、ということなのだろう。
当時の私はどちらかと言えば男の子向けの遊びを好んでいたが、
同時に「赤毛のアン」のような女の子的なものも好んだ。
しかし、思春期に入っていくに連れて、女の子的なものからは切り離されてしまい、
しかも男の子的なものには「オタク趣味」というマイナスのレッテルを貼られることと
なった。
絶対に不当で許せない。

2017年3月 8日 (水)

官能小説としての眉村卓

中学1、2年生の頃、私は好んで眉村卓のジュブナイルSF小説を読んだ。
ストーリーが面白かったということもあったが、実は私にとっては、
眉村卓のジュブナイル小説は、エロ本だったのである。
眉村卓の小説は私のマゾヒズムを満たしてくれた。
例えば、こんな内容の小説があった。(多分『地獄の才能』だったと思う。30年以上前に
読んだきりなのを思い出しながら書くので、細かいところは違うかもしれない)

主人公の通う学校に天才的な頭脳を持った生徒たちが現れる。
実は彼らは地球侵略をもくろむ宇宙人たちに洗脳されていた。
宇宙人に洗脳されると、天才的な頭脳を待つようになるのである。
そして、主人公も罠にはめられ、洗脳されそうになる。
これこそ、私が待ち望んだシチュエーションである。
その洗脳シーンを中学生の私は陶酔しそうになりながら読んだ。
グロテスクな姿の宇宙人が、自信ありげに主人公に手を伸ばしてくる。
主人公は宇宙人の手を握りたい衝動にかられる。
(手を握れば洗脳が完了し、主人公は宇宙人のしもべとなる。
そして、主人公は天才的な頭脳を手に入れ、その能力の全てを使って
宇宙人の地球征服のために尽くすのである。)
「手を握ってしまえ!!」
私は心の中で叫んだ。
しかし、そこに救い手が現われてしまうのである。
そこがジュブナイル小説の限界と言えるだろう。

そして、その手の限界がないのが官能小説である。
しかし、官能小説を読むようになって、私は欲求不満に陥った。
私が「こんな目にあいたい」と思うようなエロチックな体験をするのは
女性ばかりなのだった。
男性がエロチックな体験をすることはない。
それどころか、そもそも男性は描かれない。
描かれるとしても、反吐が出そうな汚らしくて感受性のかけらもない存在として
描かれるのだ。
前述の眉村卓の小説で言えば、男性は地球征服を目論むグロテスクな宇宙人なので
ある。
一般の男性たちが、なぜこのような、自分たちは描くに値しない汚らしい存在で、
女性ばかりが美しく、かつエロチックな体験をする小説に興奮し、満足できるのか
理解できない。

(以下、余談)
眉村卓を好んだ中学生の頃、私が惹かれたのが、光瀬龍のジュブナイル小説(のタイトル)
であった。
「北北東を警戒せよ」
「暁はただ銀色」
「立ちどまれば・死」
中学生の私は思った。「なんて、かっこいいのだろう・・・」
完全に厨二病発症である。(笑い)
勿論、光瀬龍は中学生が好みそうなタイトルを狙ってつけたのである。

2016年8月15日 (月)

コミック:「11人いる!」

「11人いる!」は、1970年代の日本のSFコミック。萩尾望都の作品である。
私が、思春期に差し掛かった小学校高学年の時、クラスの本棚にこの作品があって、
私は大きな影響を受けた。

遠い未来、人類は広く宇宙に進出している。
そして、宇宙大学という宇宙船パイロット養成の超難関大学があって、超高倍率の
筆記試験を通過した優秀な受験生達に課せられる最終試験は、本物の宇宙船で
10人一組で53日間を過ごすという実技試験なのである。
(53日過ぎる前に緊急ボタンを押すと大学が救助に来るが、試験は不合格となる)

しかし、最初から異常事態が発生する。
1チーム10人の筈なのに、11人いるのだ・・・
11人目は誰なのか?その目的は何なのか?
・・・というストーリーである。

主人公は、(一応?)タダという青年である。
そして、フロルという青年?も登場する。(こちらが本当の主人公かも知れない。
「11人いる!」が少女漫画であることを考えれば、少なくとも、読者の感情移入対象は
フロルの筈である。)
他の受験生たちは、最初フロルを見て女性だと見做す。
華奢な体つきや長い髪は女性にしか見えなかったからだ。
しかし、フロルはそれに猛反発する。
「オレは男だ・・・」
しかし、やがて、フロルは男女に分化する前の男でも女でもない存在であることが
判明する。
フロルの星の人達は、一定の年齢になるまで、男でも女でもない。
放っておけば、ホルモンの働きで自然に男か女に分化するが、
慣習として、長子は男性ホルモンが与えられ男性に、
後から生まれた子供たちには女性ホルモンが与えられ、女性になる事になっている。
フロルは、長子ではないので、女性ホルモンを与えられ、女になる運命だった。
しかし、フロルはそれに反発し、宇宙大学に合格したら、男にしてもらうという条件のもと、
受験にやってきたのだった。

11人目は誰なのか?と皆が疑心暗鬼になっている中、宇宙船を数々のトラブルが襲う。
その中で、タダとフロルの間に愛情が芽生える。
結局、彼らは、53日間を全うできず、緊急ボタンを押すことになる。
それは、フロルの「男になりたい」という願望が成就しない事を意味した。
タダはフロルに言う。
「ぼくと結婚しなよ」
それを受け入れるフロル・・・

ところが、宇宙大学からの救助がやってきて、彼らが実は合格していたことが判明する。
フロルは、男になれる訳である。
タダはフロルに言う。「よかったな。少し、残念だけど・・・」
それに対してフロルは言うのだ。
「オレさ、おまえがそういうなら女になってもいいや・・・」

私は、この「女になってもいいや」のシーンのフロルに本当に憧れた。
男になりたいと願い、その為に努力し、そしてその権利を手に入れたところで
自ら女を選ぶ・・・
羨ましかった。

だが、今考えると、この作品は、女性漫画家である萩尾望都が女性読者に向けた
「自分が女であることを肯定しよう」というメッセージのように思われるのである。
だとすれば、私は、このストーリーを正反対に書き換えなければならない。
「男になることを運命づけられながら、女になりたいと願い、そのために努力し、
そして女になる権利を手に入れた主人公が結局最後に自ら男になることを選ぶ」
そういうストーリーにしなければならないのである。
そういう「男性肯定」の為に、この作品を読んでから約35年経った今でも、
私は努力を続けているのである。

2016年3月 5日 (土)

映画:ナインハーフ

ナインハーフは、1980年代のアメリカ映画である。
若い男女が出会って別れるまでの9週間半(Nine and Half Weeks)を
描いている。
この映画について、新聞でこういうレビューを読んだことがある。
「女が男の思うがままにされてしまう、女性蔑視映画」と。
恐らく、そういう評価をすれば無難なのであろう。
間違っても、私のように「女になって、目隠しをされ、自分の美しい肉体を
氷でやさしく嬲られる体験をしたい」などと感じてはいけないのである。
(映画中にそういうシーンがある)

2015年5月13日 (水)

映画:昼顔

4月に何も書かなかったので、取り敢えず、記事を一つ書こうと思う。

以前、「苦しみ抜いた浪人生のころ」という記事で、『昼顔』という映画を見て
おかしくなってしまったことを書いた。
お金持ちの人妻が自ら売春婦になるという話で、主人公の心象風景が
ストーリーに挿入される。その一つに、確か、こんなものがあった。
(手許に『昼顔』はあるのだが、確認はしない。苦しくなるから)
教会で、神父がオブラートを女の子(恐らく、子供の頃の主人公)の口に含ませようと
するのを女の子が拒否するのである。
私は、このシーンに惹きつけられてしまったのだが、このシーンは
一体、何を暗示しているのか考えて思いついた。
このシーンは、ずばり、レイプされたいという願望を顕しているのである。
オブラートを拒む女の子が望んでいること・・・
それは、無理矢理、オブラートを飲まされること(レイプされること)なのである。
そして、このシーンに惹かれてしまう私にも、レイプされたいという願望があるのだろう。

それにしても、この映画、あまりにもひどい。
主人公の夫は、主人公に惚れた売春の客に襲われ、障害者にされてしまう
(車椅子にサングラスということは、歩けず目も見えなくされてしまったということだろう)
のである。
しかし、真相を知った主人公の夫は、妻のせいで障害者にされたにもかかわらず、
妻に理解を示す・・・とかいう、どこの三流ドラマだ!という展開なのである。
(書いていて腹が立ってきてしまった)
これが、ベネツィア国際映画祭、金獅子賞?

と思って調べたら、「主人公の夫は、真相を知って、植物状態から回復し、立ち上がる」と
いうラストなのだそうな。
でも、自分の目では確かめないよ。この映画は、私にとっては、今でも危険な映画なの
だから。

(滅茶苦茶な記事ですいません)

2月の末に紀伊國屋書店で『オトコのカラダはキモチいい』という本を見つけ、
3月にアマゾンで買った(他にも、電子書籍版も買いました)ので、
それをレビューしようと思っているのですが、まだ一部しか読んでいなくて。
(紀伊國屋書店は、女性のみポイント倍の日を設けている男性差別書店なので、
アマゾンで買いました)
私は、自分の肉体のエロスを追求したいのだし、自分の持っている肉体は
男の肉体なので、この手の本に興味が有るのです。

2015年3月 4日 (水)

映画:チ・ン・ピ・ラ

「チ・ン・ピ・ラ」は、1980年代の日本映画である。
柴田恭兵とジョニー大倉という二人のチンピラの友情を描いている。
二人は、街で女(高樹沙耶)をひっかけ、柴田が高樹を抱く。
柴田に抱かれた後、高樹は、柴田についていこうとするが、
柴田は彼女を突き放して言う。
「一度抱かれたくらいで俺の女になった気になるな。
俺は、男みたいな格好をした女は大嫌いなんだ」
(その時、高樹はボーイッシュな格好をしていた)
ところが、しばらくして、彼女は再び柴田の前に姿を現す。
今度は、実に女性らしく装って・・・
そして、柴田は彼女に惚れてしまうのである。
10代の頃、この映画をテレビで見た私は思った。
「女は、男っぽい格好をしても良く、女らしく装っても良い。
そして、男は変幻自在の女に魅了されなければならないのだ」と。
そして、セックスシーンの高樹のヌードの美しさに羨望感を感じずには
いられなかった。
このようにして、私の女性に対する羨望感はどんどん強まっていったのである。

しかし、最近、この映画をレンタルビデオで見て、柴田のヌードを結構
エロチックに撮っていることに気づいた。(若い頃この映画を見た時は、
女性に対する羨望感でいっぱいで、それに気付かなかった。)
この映画のテーマが「男の友情」であるということもあり、
柴田のヌードや男同士の「兄弟愛」に萌えているゲイがいるのではないか
と思ってネットを検索してみたが、探した限りは見当たらなかった。
(高樹のヌードについては、結構、沢山引っかかる。
柴田は当時、既にスターだったが、高樹は新進女優だった。
スター男優のヌードであっても、新進女優のヌードに勝てないということか)

あと、この映画は何と言ってもラストである。
ラストで、私は完全にやられてしまったのだ。
どうやられたのかは、実際にこの映画を見れば分かります。

2015年2月25日 (水)

映画:タワーリング・インフェルノ(ねたばれかも?)

「タワーリング・インフェルノ」は、1970年代のアメリカ映画である。
私が小学校高学年の頃、数回テレビ放映され、私は、その放映を楽しみにしていた。
しかし、この映画、今となっては、非常にむかつく映画なのだ。

映画は、超高層ビルの完成パーティーで起きるビル火災を描いている。
超高層ビルは、コスト低減の為に設計からランクを落としたケーブルを使用し、
その結果、ビル完成パーティーの演出としてなされたビルの全照明点灯という負荷に
耐えられず火災が起きてしまうのだ。
その火災に立ち向かうのは、ビルの設計者である建築家(ポール・ニューマン)と
消防隊員の隊長(スティーブ・マックイン)という二人の主人公である。
この映画の問題は、パーティーに出席した人たちのうち、女性だけ先に救出されて
しまう、という点にある。
結果、最後の修羅場に取り残されるのは男性たちだけなのである。
(どういう修羅場なのか、どうやって火災を鎮火するのかは、実際に映画を見て
いただきたい)

今、この映画をリメークするとしたら、2人の主人公のうち、一人は女性になるのでは
ないだろうか。(建築家あたりが女性になりそうだ。)
そして、最後の修羅場に取り残されるのは、相変わらず男性たち(まぁ、主人公の女性も
残るかもしれないが)
だということは十分考えられる。
前に書いた「ゼロ・グラビティ」の事を考えて欲しい。
「タワーリング・インフェルノ」において、女性は、先に救助されていたが、同時に、
ただの脇役であった。
しかし、「ゼロ・グラビティ」においては、女性が主役になっている。
では、男性が、先に助かるという設定になったのかというと、相変わらず、男性が
女性のために死ぬという設定なのである。
そして、そういう残酷な設定を我々は「女性が強くなった時代」と称している。
本当に、女性が強いのならば、女性が男性の為に命を差し出すというストーリーに
するべきであろう。

2015年1月16日 (金)

映画:ゼロ・グラビティ(ネタバレあり)

私は、あまり映画は見ない。(レンタルビデオも含めて。)
だから、映画について、評論できるような立場ではないのだが、
これまで私の見た映画を男女という視点から、いくつか考えてみたい。

まず、比較的最近、レンタルビデオで見た「ゼログラビティ」。
地球上空を宇宙遊泳中に、ロシアの衛星の事故によって、母船を破壊されてしまった
主人公(女性)が地上に生還するまでを描いている。
途中まで、気障ったらしいセリフを吐きながら主人公を助け、
そして、主人公の命を救うために自ら命を投げ出すのが男である。
男が死んだ後、主人公は、いつまでも続く苦難に絶望し、自殺しかけるが
そこに、男の幻が現れ、彼女を励まし、そして、彼女は勇気を得て、
地球に帰還するのである。
(どうでもいいけど、地球に帰還するなり、いきなり泳ぐなよ。宇宙から帰還したら、
本当なら重力(gravity)でしばらくは動けないはずじゃないか?)

この映画は、本当に嫌だった。
「最初は男に助けられるだけだったのに、最後は自らの力で生還する主人公は、
なんて強いのだろうと思いました。女性は素晴らしい」と
書けば模範解答なのだろうが、勿論、私には、そんな事は書けない。
男女平等を推進するなら、男女の役割を入れ替えるべきである。
女は男性を助け、そして、最後は男性を助けるために命を投げ出すべきなのである。
その代わり、いくらでも、気障ったらしいセリフを吐いていいから。