エセ男性学批判

2017年9月 5日 (火)

「男の生きづらさ」という言葉を使って男性を侮辱するエセ男性学(2016年7月17日付朝日新聞星野智幸氏の書評を題材に)

前回、日本のエセ男性学のいう「男の生きづらさ」とは、「被害者の生きづらさ」では
なく、「加害者の生きづらさ」であるということを批判した。
読者の中には、例え、加害者扱いであるにせよ「男の生きづらさ」を問題にしている
のだから男性にとっていいことではないか?と考える人がいるかもしれない。
今回は、その点について考えたい。
題材は、朝日新聞2016年7月17日付に掲載された書評である。
小説家の星野智幸氏による多賀太著『男子問題の時代?』の書評で、
題名は「男たちの「生きづらさ」を考える」である。
(いきなり、彼らのお題目である「男たちの生きづらさ」という文言で始まる
タイトルに思わず苦笑)
なお、お断りしておくが、私自身は多賀太氏の著作は読んでいない。
この文章は、飽くまでも、星野智幸氏の書評に対するものである。
以下、星野氏の書評を引用する。

>「女性専用車は男性差別です」とプラカードを掲げて、女性専用車両に乗り込んで
>くる男性がまれにいる。なぜ、そんな不快なことをするのだろうか。
>それで自分の生きづらさが変わるわけでもあるまいに。
>基本的に、この手の暴力行為は、現在の男たちが抱える生きづらさへの恨みや
>不満から、生まれている。

「男たちが抱える生きづらさ」という、いかにも男性に対して理解を示すが如き
言葉を使いながら、男性が抗議の意志を示して女性専用車両に乗ることを
「不快なこと」「暴力行為」と断定している。
(女性専用車両そのものが「男の生きづらさ」を増しているのに、それには全く触れない)
多くの人がすぐに気づくことだろうが、男性が女性専用車両に乗る行為は暴力行為では
ない。

私は、女性専用車両が始まった頃、抗議の意思を示すために、警備していた駅員に
「私は男性だが女性専用車両に乗ります」と断った上で、女性専用車両に乗ろうとして、
数人の駅員によって、無理矢理強制排除された経験がある。
(私は、当時、大学院予備校と大学院で「人権」について学んだ直後だったから、
駅員たちは私を乗せるだろうと考えていた。何故なら「男性である」というのは自らは
選べない属性であり、自ら選択出来ない属性によって、電車という公共交通機関の
車両に乗せないとしたら、それは人権侵害になるからだ。)
駅員の強制排除によって私は怪我をした。
ズボンのベルトも切れてしまった。
それ以上に、精神的なショックが大きく、私は、あれから十数年経った今でも、
その時のショックを引きずりながら生きているのである。
(電車に貼られた「女性専用車両」のステッカーを見るとあの時の怒りと悲しみが
フラッシュバックする。)
私が女性専用車両に乗ろうとした行為は暴力行為ではない。
私を強制排除し、怪我をさせ、大きな精神的ショックを与えた駅員たちの行為が
暴力行為である。
星野氏の言説は、私を含む女性専用車両に抗議乗車する男性に対する侮辱である。
一経験者としていうが、男性が敢えて女性専用車両に乗るというのは、
大変に勇気のいる行動なのである。
本当の男性学なら、むしろその勇気を賞賛するべきではないか。

ローザ・パークスというアメリカの公民権運動を語る上で欠かせない女性がいる(故人)。
彼女は、アメリカの黒人女性で1950年代にアメリカの公共バスに於ける白人優先に
抗議し、白人に席を譲ることを拒否して逮捕された。
彼女が白人に席を譲らなかったことは暴力行為ではない。
彼女を逮捕した警官達の行為が暴力行為である。
もし、黒人学と自称する人たちが彼女の行為を「不快な暴力行為」と決めつけたら、
多くの人はこう考えるだろう。
「黒人学を詐称する白人優越主義なんじゃないの?」と。
同じ批判を受けなければならないのが、日本の男性学である。

上に掲げた引用文以降で星野氏が開陳している考え方は、以下のようなものだ。
男性が女性を抑圧して、現在の社会を造った。
(つまり、抑圧者が男性で、被抑圧者が女性)
しかし、男はしょうもない生き物なので、ひどい世の中しか作ることができず、
一部の男性が旨味を独占し、男でありながら、旨味を享受できない男達が出てきた。
男が女性専用車両に抗議乗車するという行為は、男でありながら、男の旨みに預かれ
ない男が被差別者である女性に対して行う、言わば八つ当たりである・・・

ひどい決めつけである。
例えば、私は男でありながら男社会の旨味に預かれず、その八つ当たりの為に、
女性専用車両に乗車しようとしたのであろうか?
断固として違う。
私は、特に思春期以降、自分の欲しいものを全て女性に奪われるという経験を
してきた。
残った数少ないものが、電車である。
バブル期の趣味男性に対するオタク扱い(私の場合は鉄道オタク扱い)に
耐え難い思いをしながらも、私は電車を愛してきた。
(一方、そのバブル期に、私と同世代の女性達は、「蝶よ花よ」と持て囃されていた)
その電車の中に女性の特権的スペースができることに私は耐えられなかった
のである。

そして、もう一つ指摘したい。
星野氏の言説にそっくりのイデオロギーを私は知っている。
ラジカル・フェミニズムである。
「男が女性を抑圧し、ひどい社会を創った。そして、男でありながら、男社会の旨味に
預かれない男が、被差別者である女性に八つ当りをしている」というのは、
そっくりそのままラジカル・フェミニズムの論理である。
星野氏の記事は、日本で男性学と称している人達の正体がラジカル・フェミニズムで
あることの一つの証左である。
だから、いくら「男の生きづらさ」というフレーズを連呼していたとしても、彼らの言説が
男性の利益に働くことは決してない。

2017年8月25日 (金)

日本の自称「男性学」はフェミニズムの傀儡である。

ジャーナリストの下村満子氏が、1980年代前半から90年代始め頃にかけて、
アメリカにおける男性運動についての本を書いている。
その下村氏の本の中で、私が1980年代末頃に図書館で出会い、
大きな影響を受けたのが、『アメリカの男たちはいま』(朝日新聞社、1982)である。
この本の中で、下村氏はアメリカに於いてメンズリブを主張する人たちを4つに
分類している。

--引用--
第一は、「離婚した父親たち」の運動。
第二は、フレッドに代表されるような「男の開放」を父親の問題に限定せず、
もっと根本的な「男の在り方」の問題までつきつめようとするグループ。
第三は、メール・フェミニスト(女性開放を支援する男)とよばれる人びとで、
「女性たちがいうとおり、男は長い間、女性の権利を抑えつけてきた。だから、
男性開放とは、そうした過去への贖罪として、女性運動を支援することにある」と
考えている男たち。
第四は、その反対で、「女は家庭に帰れ。男は権威と力を取り戻せ!」と叫ぶ
男権主義者たち、である。
--引用終わり--

「アメリカの男たちはいま」は、この4つのうちの一(離婚した父親の権利運動)と
二(「男の開放」を「男の在り方」の問題まで突き詰めるグループ)に焦点を絞る。
(加えて、急増するアメリカの男性同性愛者事情についても、かなりのページを
割いている)
四(保守的男権主義者)については、批判的に少し触れているが、
三の「メール・フェミニスト」については、全く触れていない。
恐らく著者の下村満子は、「アメリカの男性運動をテーマにした本」の中で
「メール・フェミニスト」に触れる意味はないと考えたのであろう。
(フェミニストの一流派としてなら、考察する意味を見出すかもしれないが)

では、1990年代中頃から日本において「メンズリブ」とか「男性学」と自称し、
活動している伊藤公雄を始めとする人達は、上の分類では、どれに該当するのであろうか。
これが明確に3の「メール・フェミニスト」なのである。
下村氏が「男性運動」として扱うには値しないと考えた(と推測される)メール・
フェミニストが日本では大手を振っているのである。
彼らは「男の生きづらさ」などという、いかにも男性に対して理解ありげな言葉を使う。
しかし、きちんと読めば「男は被害者だから生きづらい」のではなく、
「男は加害者だから生きづらい」いう意味であることに気付くだろう。
(「加害者扱いされているが実は被害者である」とかそういうニュアンスではない)
「加害者として反省し、フェミニズムの言うことを聞けば「男の生きづらさ」から
開放されます」というその内容は、私に言わせれば「ふざけている」としか言いようがないものだ。
日本における「男性学」ほど男性をバカにした言説はないであろう。
男性を侮辱する言説が「男性学」と自称し、まかり通っていることがとても腹立たしい。

しかし、男性であることに悩んでいる人が、図書館や書店に行って見つける本は、
彼らの本である確率が非常に高いのが実情である。
彼らの本を読むと、どことなく、新興宗教の入信セミナー的な「嘘っぽい
アットホーム感」が漂っている。
「男性である」ということで悩んでいる人が、それらのエセ男性学(フェミニズムの
傀儡男性学)に「入信」してしまうことのないよう祈るばかりだ。

2016年1月18日 (月)

メイル・フェミニズム

1980年代終わり頃、私は、やっと私の考えに沿う本を見つけた。
『アメリカの男たちはいま』下村満子、朝日新聞社、1982
『脱男性の時代』渡辺恒夫、勁草書房、1986
である。
それまで、世界がよってたかって、自分を否定しようとしていると
感じていた私にとって、それは大きな驚き、そして喜びだった。
1991年には、アメリカの男性団体NCFMの本の抄訳版である
『正しいオトコのやり方』 下村満子訳、学陽書房、1991
が出版され、私は「やっと、いい方向の風が吹き始めた」と思った。

そして、90年代中頃から日本に登場してきたのが「男性学」「メンズリブ」と自称する
一連の本であった。
当初、私は、当然期待した。
しかしやがて、それは、失望へ、怒りへと変わっていった。
自称「男性学」「メンズリブ」の本を読んでも、ちっとも、心に響かない。
それどころか、不愉快な違和感が湧いてくるのである。
その不愉快さはフェミニズムの本を読んだ時のそれにそっくりだった。
そう、自称「男性学」「メンズリブ」とは、実は、フェミニズムの一派だったのである。
「男性よ、女性に対する加害者であることをやめよう、そうすれば男性は開放される」
というような内容で、男性を加害者、女性を被害者と位置づけている。
男性=加害者、女性=被害者と位置づけるのは、例え「メンズリブ」と自称していても、
フェミニズムの一種と考えるのが妥当である。
(この手のフェミニズムをメイル・フェミニズムという。)

その後、フェミニストと論争した時、そのうちの一人のフェミニストが私にこう言った。
「私は、伊藤公雄(メイル・フェミニズム本の著者)を読んでいるので、
あなたを理解できると思います」
はぁぁぁ?伊藤公雄を読んで私を理解できるわけ無いではないか。
恐らく、彼女は、さぞ楽しい気分で伊藤公雄の「メンズリブ本」を読めたことだろう。
当然である。
実際には、それは「フェミニズム本」なのだから。

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    男性同性愛者、Nikkohさんのブログです。マスキュリズムについての記事が大変参考になります。「手弱男」として、弱者男性の問題についても関心をお持ちです。
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