渡辺恒夫「脱男性の時代」論

2019年6月14日 (金)

渡辺恒夫『脱男性の時代』を読む その5

こうして、近代市民社会において男性は「美」や「エロス」を捨てた。
ところが、皮肉なことに男性が肉体のエロスを捨てたところに「ビジュアル社会」
(要するに「見た目優位社会」)が到来したのである。
具体的には、写真や映画(動画)が発明された。
そして、写真も映画も当然のように女性ばかりを被写体に選び、
現代社会は女性のイメージで溢れかえることとなった。
もし、宇宙人(*1)が地球の様子を観測したならば、溢れかえる女性のイメージを見て、
地球の主役は女性であると考えるに違いない。
それを我々は「女性のイメージが溢れているのは女性が蔑視されモノ化された結果だ」などと
まわりくどい理屈で説明しているのである。

現実問題として、現代において女性は「美しい肉体を持つ性」として、
マスメディアのグラビアぺージを占拠し、都市という舞台の主役を謳歌し、
更には、その肉体美の優位性を利用して男性の領域(社会的地位)をも侵そうとしている。

こうやって、女性が男性の領域を侵す一方で、男性の方は女性の領域に踏み込むことが許されていない。
『脱男性の時代』が出版された時代と比べると、現代は、従来女性の領域とされていた
家事や育児などへの男性の進出が著しく進んだと言えるだろう。
(私も特に男性の育児は重要だと考える。)
しかし、女の領域の「本丸」は実は家事や育児ではない。
「本丸」は「エロス的肉体性」なのである。
この「本丸」に攻め込まない限り、男性の劣勢は続くだろう。
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以上、渡辺恒夫の論旨を『脱男性の時代』出版後33年の変化も踏まえ、私なりに説明をしてみた。
実際、私は思春期以降、雑誌やTVで女性ばかりが取り上げられることに強いコンプレックスを
感じてきた。
かなり以前、当ブログのコメント欄(現在はコメント欄への投稿は受付けていないが)に
「男性誌の表紙も女性誌の表紙も女性の写真ばかりであることに女性に対するコンプレックスを感じる」と
いうような趣旨のコメントをくれた男性がいたが、私も全く同じ劣等感に悩まされてきた。
私は「男性にも雑誌の表紙になる価値があること」を証明しようと、マスメディア等で
一生懸命「男性のイメージ」を探し続けた。
しかし、探せば探す程「女のイメージ」ばかりを見せられる羽目になるのだ。
男性のイメージのを探しているのにも拘わらず、女性のイメージばかりを見せつけられるということは、
要するに男性には何らの美的価値もないということではないか。
しかし、男女平等が叫ばれてきたここ数十年、私のこの悩みは恰も存在しないかのように扱われたのである。
唯一、真正面から私の悩みに応えてくれたのが『脱男性の時代』だったということだ。

(*1)ここでいう宇宙人とは「地球の状況を客観的に観察出来る者」の例えである。

2019年6月 7日 (金)

渡辺恒夫『脱男性の時代』を読む その4

渡辺恒夫の論を進めよう。

近代市民革命(手っ取り早く言えば「フランス革命」)に於いて男性は自らの「存在」と「肉体」と
それらから生ずる「エロス」を捨ててしまった。
近代市民革命前の封建制時代、男性は「存在」(etre、英語のbe)であった。
「貴族」とか「農民」として「存在」し、
例えば貴族男性は、貴族の誇りにかけて他の階級の男性より美しくなければならなかった。
ところが、フランス革命により身分制は失われ、以降の近代市民社会に於いて男性を測る尺度は
「所有している」(ブルジョワ)か「所有していない」(プロレタリア)かになってしまった。
美しい絵画や美女を「所有すれば」ブルジョワ男性、「所有しなければ」プロレタリア男性である。
ここに「美」とは(少なくとも男性にとっては)「自分があるべき姿」ではなく「所有するモノ」に
なったのである。
そして「美」は「モノとして所有される」というマイナスの烙印性を持つようになった。
近代市民社会は男性に「能動的」で「合理的」な「精神」であることを要求した。
この時から男性は「受動的」な「肉体」とそれに伴う「美」や「エロス」を
喪失したのである。
そして、男性の肉体に欲望を抱く(つまり男性を受動的な肉体、エロスと看做す)男性同性愛に
対する今日的タブーが成立したのもこの近代市民革命後である。
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渡辺恒夫は近代市民革命は男性に悲劇をもたらしたと捉えている。
対比するならば、フェミニズムは近代市民革命とほぼ同時期に発生した思想であり、
近代市民革命が男性にもたらした効果を肯定する、謂わば「女に近代市民革命が
起きないのは差別だ」思想であることに留意する必要があるだろう。
(勿論、200年以上経ってフェミニズムも多様化しているが)

近代市民革命と男性性の変容については、(私の嫌いな)伊藤公雄も、比較的似たようなことを述べている。
近代市民社会は、男性に「平準化」(身分制が無くなったこと)と「分化」(互いに異なる狭い範囲の職務を
こなすということ)をもたらし、その反動が男らしさ(力、権力、所有)を強調するロマン主義、
ひいてはファシズムを生み出したという見解である。(*1)

(*1)伊藤公雄 「男らしさ」の挫折 『自尊と懐疑 文芸社会学をめざして』作田啓一・富永茂樹編
(筑摩書房、1984)所収

2019年5月26日 (日)

渡辺恒夫『脱男性の時代』を読む その3

前回の記事で男性は「主体」であるが故に「美(客体)」になることが出来ないと書いた。
ということは、やはり、「主体」=「主役」=「男性」であり、
女性は「客体」=「脇役」として「モノ化」されているのではないかという主張が
フェミニストからなされるかも知れない。
だが、実は、今日において女性は「主体」になろうと思えば、簡単になれるのである。
具体例として、街には、自撮りしている女性達が溢れている。
その自撮りを止めて、スマホのカメラを男性に向ければ、その瞬間から彼女達は「主体」になりうるのだ。

もう少し、詳しく考えてみよう。
「自撮り、SNSアップ」は、『脱男性の時代』が出版された33年前は存在しなかった今日的風俗(?)の代表格であろう。
そして「自撮り、SNSアップ」をしているのは97.5%(当社推定値)女性なのである。
この「自撮り、SNSアップ」という行為の裏には「客体となりたい、ネットで客体として観賞されたい」という欲望があるのだ。
考えてみれば、女性の自撮りとは「客体自身が自らに好ましい姿を客体化」するという主体(男性)なき世界なのである。(注)
女性達は男や男社会に強要されて「自撮りSNSアップ」をしているのだろうか?
否。彼女達は自ら望んでそれをやっているのだ。
そして、それは寧ろ「主体」である筈の男性の方がどん引きするレベルにまで達しているのである。
女性のモノ化に抗議するフェミニストが対決しなければならないのは男/男社会ではなく自撮り女性である。
自撮りをやめることなど簡単なのに、それをやめない女性達だ。
フェミニストは「男社会に抗議」などという大上段なことは止めて、街で自撮りをしている女性たちに
「自撮りをやめてスマホカメラで男性を撮ろう」と呼びかけるべきだろう。
自撮りをやめて、男性を撮影し始めた時に「主体」としての女性が現れるはずだからだ。
しかし、フェミニストたちはそれをしない。
そんなことをしても、自撮り女性達から自分たちの提案が拒絶され、
挙句の果てには、女性の味方の筈の自分達が当の女性たちから疎まれるであろうことを本能的に察知しているのである。
だからこそフェミニストは「全て男のせい」にして男性を責めつづけ、
その一方で、女性達は何ら咎められることなく自撮りの快楽(自己客体化の快楽)に耽りつづけている。
それが『脱男性の時代』出版から33年経った現在の状況であるように思われる。

(注)本当に主体(男性)を必要としないかは、以前書いた「男性が全員女体嫌悪型同性愛者となった社会」を
想像してみて欲しい。
そのような社会でも彼女達は無邪気に「自撮り、SNSアップ」という行為を続けられるだろうか?
私は無理だと思う。

2019年5月22日 (水)

渡辺恒夫『脱男性の時代』を読む その2

一番最初の記事で「体系的には論じられないだろう」と断ったが、二番目の当記事で早くも、
前の記事と直接つながらない文章になってしまったことをお詫びしたい。
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この本で渡辺恒夫が一番言いたかったことは
近代/現代社会に於ける「成人男性(主体)であることと美(客体)であることの矛盾」で
あろう。
以下は私流の説明である。

成人男性(手っ取り早く言えば「おじさん」)が美しくないというのは物理的問題
(手っ取り早く言えば、ゴツゴツしているとか、毛深いとか、ハゲているとか)のようでいて
実はそうではないのである。
男性は「主体」、言い換えれば「観察者」でなければならない。
一つの「視線」として、常に客体(女)を冷静に観察しなければならず、
例え、女が快楽に我を忘れたとしても、自らは、その快楽に溺れることなく、
女を冷静に観察し、記述しつづけなければならないのだ。
決して「自分も我を忘れて快楽に溺れたい」とか「自分も美でありたい」と考えてはならない。
「主体」が我を忘れて自己陶酔したり、自らの美を主張することは、一種右翼チックな危険を孕んでいる。
その点、女性は「主体」から半歩身を引くことによって、「自分は美しい」という快楽を全面的に享受しているのだ。
(つづく)

2019年5月12日 (日)

渡辺恒夫『脱男性の時代』を読む その1

これから、私に男性論において最も影響を与えた本である
渡辺恒夫『脱男性の時代』(勁草書房、1986)について私なりに論じていきたいと思う。
本来ならば、体系的に論じるべきなのだが、場当たり的な書きこみが続くこととなるだろう。
というのも、体系的に論じようとしていたら、ものぐさな私は、いつまでたっても書きはじめることが
出来ないからである。

さて、最初に思うのは、この書籍、『脱男性の時代』ではなく『脱近代男性の時代』という書名に
するべきだったのではないかということだ。
実際、私が最初に図書館でこの本に出会ったのは1989年(丁度30年前だ!)だったが、
一番最初に書名を見て、私はてっきり「これからは女性の時代です」という女性礼讃の本だと思ったし、
最近もネットにおいて「男をやめようという本」と紹介しているサイトを見かけた。

実際にはこの本は「これからは女性の時代だ」という女性礼讃本でも「男をやめよう」本でもない。
「近代市民革命後の男性の在り方は人間の在り方として不自然であるから、
それ以前の本来の人間らしい在り方を取り戻すべきだ」という趣旨の本なのである。
(つづく)

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