渡辺恒夫「脱男性の時代」論

2020年8月29日 (土)

渡辺恒夫の退場とエセ男性学の登場 その1

私がその悲しい記事を見かけたのはいつだっただろう?
そして読んだ雑誌は何だっただろう?
時期的には多分1992年頃だろうが、何で読んだのかは思い出せない。
(多分、人文系の雑誌だっただろうと思う)

渡辺恒夫はその記事で「男性学分野の研究から去る」という趣旨のことを
書いていた。
私は大いに失望し、何か裏切られたような気分になった。

そして、その記事を最後に、ジェンダー研究の分野で渡辺恒夫の名前は、
不自然な程見掛けなくなった。(*1)
渡辺恒夫が、単に男性学の研究を止めただけではなく、過去の自分の
男性学研究にも口を閉ざしてしまったのは明らかだった。

そして、それと入れ替わるように現れたのが伊藤公雄なのである・・・。

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ところで、ここでちょっと話を変えて、とある文献についての話を書いてみたい。
A氏(仮名)というジェンダー活動家が1990年代後半に出版した自伝がある。
その自伝にB先生(当該文献でも仮名だが、Bとは別の仮名である)という
心理学教授が出てくる。
A氏とB先生はかつて文通をしていたことがあるのだが、A氏がジェンダー活動家としての
活動を始めた頃、アメリカにいたA氏のところまでB先生から手紙が
届いたというのである。
(当時はまだEMAILではない、物理メールだった筈だ)
その手紙には
「この分野の研究を止める」
「私と文通していたことは、今後、一切口にしないで欲しい。」
「私の名前すら一切出さないで欲しい。」
と書かれていた。
これについてA氏は「B先生の研究者としての立場の都合だと人づてに聞いた。
今は別の分野の研究をされているそうだ」と書いている。

B先生というのが一体誰なのかはよくわからないが、海外にいる人物にまで
口止めの手紙を送るというのは、かなりの事情なのだろう。
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閑話休題。
これは推測でしかないが、伊藤公雄は、おそらく、素知らぬ顔で「男性学」を
乗っ取ってしまっても、渡辺恒夫から文句が出ないことを知っていた。
しかし、渡辺恒夫本人から異議が出ないとしても、別人物から指摘が出る
可能性がある。
(現に、もう25年経ってしまったが、私自身がこのブログで指摘している。)
そこで、少しずつ少しずつ、「男性学の提唱者=伊藤公雄」の既成事実化を進めていったのではないか?
そう推測する。

この項はつづくのだが、今回最後にこの記事を書く気になった訳を書きたい。
数年前、渡辺の『脱男性の時代』がオンデマンドという形ながら再出版されていることを知った。
再出版には当然、著者の許可が必要である。
渡辺にとって『脱男性の時代』が完全な黒歴史でしかないならば、絶版として間違っても再出版など
しない筈だ。
それを再出版したということは(「過去の研究」という但し書きはつくのかも知れないが)渡辺にとって
男性学研究は完全な黒歴史ではなく、自己の業績として残し且つ他人から論じられても構わないという
意思表示という意味を持つ筈なのである。
そういう訳で、今回の記事(それから今後アップする関連記事)を書く気になった。

(この項つづく)

(*1)氏家幹人氏の『武士道とエロス』で名前を見かけた位しか思い出せない。

2020年4月 3日 (金)

渡辺恒夫『迷宮のエロスと文明』(1991)を読んで考えたこと

今年に入ってからまだ1回も書いていなかったが、これは私が現在、ある「挑戦」をしていて、
そちらに集中せざるを得ないからである。

さて、昨年10月に中古本で
渡辺恒夫『迷宮のエロスと文明』(新曜社、1991)
を購入した。
渡辺恒夫の『脱男性の時代』(勁草書房、1986)とその続編『トランス・ジェンダー
の文化』(勁草書房、1989)は初めて読んでからもう30年くらい経つが、これらの
続編に当たる当書は実は未読であった。

上に書いたように私は今「挑戦」をしているので、買ってから半年たった今でも
詳細に読み込んでおらず、パラパラ読んだだけなのだが、
改めて、渡辺恒夫は鋭いと思った。
例えば、1989年頃の連続幼女誘拐殺人事件を契機に始まった「おたくバッシング」について、
渡辺は以下のように喝破している。

>ここで問題としたいのは、中高年「識者」を、男女を問わず保守派から
>フェミニストらしき人物に至るまで動員してなされたマスメディアによる
>容疑者M叩きが、「おたく」叩きへと拡がるにつれ、
>おたく=若い男性=ロリコン・二次コンといった等式化がなされ、
>あたかも男性若年層全体が袋叩きの対象となり「医学的囲い込み」を受けて
>そっくりマイノリティ化されそうな形勢となって来たことである。
(同書20頁)

上記引用文はバブル当時、私の感じていた疎外感を的確に表現している。
私は12歳の頃、自分が鉄道ファンであることを誇りに思っていた。
(鉄道ファンであることはカッコいいことだと思っていた)
そして、自分は美しいと思っていた。
しかし、その10年後、バブルの頃には「鉄道オタク」(=連続幼女誘拐殺人犯と同類)
でしかなく、しかも、とても醜い自分に絶望していた。
同じ年代の女性たちがバブルの中で「蝶よ花よ」と持て囃されているのに、
若い男性である私は醜いオタク(=変質的犯罪者予備軍)でしかないことを悲しんでいた。
正に「袋叩き」の「マイノリティ」だったのである。

では、伊藤公雄は「連続幼女誘拐殺人事件」と「男性」をどう捉えているだろうか。

>社会の「女性化」(脱男性化)の波と、男たちの不安の増大という観点から見る
>とき、一九八九年という年は、きわめて象徴的な年だったのではないかと
>思われる。
>年始めには、東京で女子高校生監禁=コンクリート詰殺人事件が発覚し、
>夏には、連続幼児誘拐殺人事件の容疑者が逮捕された。
>この二つの悲惨な事件の背景には、女のモノ化=支配の対象としての女という、
>「男の論理」が存在している。
>しかも、一方は、集団での行為であり、そして他方は、単独ではあっても
>対象としてよりコントロールしやすい「幼い少女」が選択されているという点で、
>きわめて興味深い。というのも、そこには、一人の人格として、対等な異性と
>コミュニケーションすることができなくなった、現代の男の子たちの姿が
>ダブって見えてくるからだ。「男らしくあれ」(女を支配せよ)という命令と、
>すでにそうふるまうことができなくなってしまった社会とのジレンマのなかでの、
>追い詰められた男たちの、女たちへ向かっての病理的で攻撃的な「反撃」として、
>これらの事件をとらえるというのは考えすぎというものだろうか。
伊藤公雄『男らしさのゆくえ』(新曜社、1993) 97頁

伊藤公雄の見方は、実に定型的で、かつフェミニズム的である。
完全に男性をディスっていて、そこには「オタク」扱いされて
苦しんでいる若い男性への共感や同情など全くない。

因みに、渡辺恒夫の「ロリコン趣味」に関する見解は以下の通りである。

>また、やはり一九八九年に突如としてメディアに浮上した語に「おたく」なるもの
>があるが、おたく少年特有のロリコン趣味とは「男になりたくない」願望の表れで
>あって、マンガやアニメ同人誌にあふれる美少女は、他者愛の対象であるより
>むしろ同一化欲求の対象であることが、明らかになっている
(渡辺、前掲書7頁)

私自身は「オタク」ではあっても「ロリコン」ではないので、どちらが正しいと
判定はできないのだが、伊藤公雄の見解が「男性への共感」を全く欠き、
それどころか「男性に対するディスり」でしかないことは確かであろう。
「男性への共感」が全く欠けているのが伊藤公雄の「(自称)男性学」なのである。

p.s 次回は伊藤公雄が自身の論文「男らしさの挫折」(1984)を「日本の男性学の嚆矢」と
自画自賛していることに対する批判を書きたいと考えていますが、前述のような事情なので、
いつアップ出来るかは分かりません。

2019年9月21日 (土)

渡辺恒夫『脱男性の時代』を読む その7

私が1989年に『脱男性の時代』に出会って30年が経った。
30年前『脱男性の時代』を読んで、気づかされたことがあった。
それは「女性を羨ましいと思う気持ちはその人の内面的女性性のあらわれである」と
いうことだ。
私はそれまで自分が女性を羨むのは貧乏人がお金持ちを羨むのと同じであると考えていた。
(実際、私にとって、女性は美しい肉体という財産を持つ「資産家」であり、
男性はグロテスクな肉体しか持たない「貧者」であった。)
貧乏人がお金持ちを羨むのはごく当然のことで、それは「貧乏人の内面的お金持ち性のあらわれ」では
ないであろう。私はそういう促え方をしていたのである。
しかし、『脱男性の時代』はそういう私の考えを覆したのであった。

(追伸)更新ペースが下っていますが、私の執筆意欲は変わりありません。色々な文献を
読んでいる最中なので、将来、それらを読んで湧いたインスピレーションを基に
記事を書きたいと考えています。
「稲垣足穂が渡辺恒夫に与えた影響」とか「伊藤公雄の歴史改変疑惑追及第2弾」とか
色々書きたいことはあります。

2019年7月 4日 (木)

渡辺恒夫『脱男性の時代』を読む その6

私が『脱男性の時代』を読んでいて「鋭い」と感じたのが、男性同性愛者(以下「ゲイ」と呼ぶ)の
心理についてである。
簡単に言えば「男らしさに欠けるが由に男らしさに憧れ、その憧れが性欲になってしまった人達」が
ゲイだという論旨である。
ゲイの人達は、幼少期に「女々しい」という評価を受けた人が多く、それを自らに対する否定的評価として
認知するため、「男らしさ」や「男らしい男性」に対する強い憧れを持つようになる。
その憧れが思春期に性欲と結びついて「男らしい男性」への性欲となってしまう。
そして、男らしい男性と男らしいセックスをすることによって自分が「男らしい男」になったという
満足感を得る、という心理機序だと言うのである。
これは、1980年代末頃からゲイのパソコン通信ネットワークに入会して彼らの書き込みを
読んでいた者として「当っている」と感じられる説である。
しかし、私からみて「当っている」と感じられるこの説と同様の見解を何故か他で見かけたことがない。
ゲイ当事者がゲイが発生する原因を論じているのはネットでも出版物でも何度も見た。
遺伝子説、女性型脳説、胎児期に母親がストレスを受けた影響説など様々である。
しかし、渡辺恒夫のような心理機序を述べているものは何故か見当たらなかった。
(因みに遺伝子説、女性型脳説などは物理的原因であり、渡辺恒夫の説は心理的原因だから両者は併立し得る)
全く外れているから見当らないのか、逆に当り前過ぎるから見当らないのか、
そもそも問題の捉え方が異なっているのか、謎である。

因みに今日、LGBTの権利が叫ばれ、それに保守層(保守的な同性愛者も含む)が反発しているのは
読者も知っている通りである。
しかし、ゲイ差別を近代市民社会的「人権」概念で批判したとしても、そもそも男性同性愛をアブノーマルに
してしまったのが近代市民社会そのものであるとすれば、根本的な解決にはならないのである。
『脱男性の時代』はそういう問題を提起している。

2019年6月14日 (金)

渡辺恒夫『脱男性の時代』を読む その5

こうして、近代市民社会において男性は「美」や「エロス」を捨てた。
ところが、皮肉なことに男性が肉体のエロスを捨てたところに「ビジュアル社会」
(要するに「見た目優位社会」)が到来したのである。
具体的には、写真や映画(動画)が発明された。
そして、写真も映画も当然のように女性ばかりを被写体に選び、
現代社会は女性のイメージで溢れかえることとなった。
もし、宇宙人(*1)が地球の様子を観測したならば、溢れかえる女性のイメージを見て、
地球の主役は女性であると考えるに違いない。
それを我々は「女性のイメージが溢れているのは女性が蔑視されモノ化された結果だ」などと
まわりくどい理屈で説明しているのである。

現実問題として、現代において女性は「美しい肉体を持つ性」として、
マスメディアのグラビアぺージを占拠し、都市という舞台の主役を謳歌し、
更には、その肉体美の優位性を利用して男性の領域(社会的地位)をも侵そうとしている。

こうやって、女性が男性の領域を侵す一方で、男性の方は女性の領域に踏み込むことが許されていない。
『脱男性の時代』が出版された時代と比べると、現代は、従来女性の領域とされていた
家事や育児などへの男性の進出が著しく進んだと言えるだろう。
(私も特に男性の育児は重要だと考える。)
しかし、女の領域の「本丸」は実は家事や育児ではない。
「本丸」は「エロス的肉体性」なのである。
この「本丸」に攻め込まない限り、男性の劣勢は続くだろう。
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以上、渡辺恒夫の論旨を『脱男性の時代』出版後33年の変化も踏まえ、私なりに説明をしてみた。
実際、私は思春期以降、雑誌やTVで女性ばかりが取り上げられることに強いコンプレックスを
感じてきた。
かなり以前、当ブログのコメント欄(現在はコメント欄への投稿は受付けていないが)に
「男性誌の表紙も女性誌の表紙も女性の写真ばかりであることに女性に対するコンプレックスを感じる」と
いうような趣旨のコメントをくれた男性がいたが、私も全く同じ劣等感に悩まされてきた。
私は「男性にも雑誌の表紙になる価値があること」を証明しようと、マスメディア等で
一生懸命「男性のイメージ」を探し続けた。
しかし、探せば探す程「女のイメージ」ばかりを見せられる羽目になるのだ。
男性のイメージのを探しているのにも拘わらず、女性のイメージばかりを見せつけられるということは、
要するに男性には何らの美的価値もないということではないか。
しかし、男女平等が叫ばれてきたここ数十年、私のこの悩みは恰も存在しないかのように扱われたのである。
唯一、真正面から私の悩みに応えてくれたのが『脱男性の時代』だったということだ。

(*1)ここでいう宇宙人とは「地球の状況を客観的に観察出来る者」の例えである。

2019年6月 7日 (金)

渡辺恒夫『脱男性の時代』を読む その4

渡辺恒夫の論を進めよう。

近代市民革命(手っ取り早く言えば「フランス革命」)に於いて男性は自らの「存在」と「肉体」と
それらから生ずる「エロス」を捨ててしまった。
近代市民革命前の封建制時代、男性は「存在」(etre、英語のbe)であった。
「貴族」とか「農民」として「存在」し、
例えば貴族男性は、貴族の誇りにかけて他の階級の男性より美しくなければならなかった。
ところが、フランス革命により身分制は失われ、以降の近代市民社会に於いて男性を測る尺度は
「所有している」(ブルジョワ)か「所有していない」(プロレタリア)かになってしまった。
美しい絵画や美女を「所有すれば」ブルジョワ男性、「所有しなければ」プロレタリア男性である。
ここに「美」とは(少なくとも男性にとっては)「自分があるべき姿」ではなく「所有するモノ」に
なったのである。
そして「美」は「モノとして所有される」というマイナスの烙印性を持つようになった。
近代市民社会は男性に「能動的」で「合理的」な「精神」であることを要求した。
この時から男性は「受動的」な「肉体」とそれに伴う「美」や「エロス」を
喪失したのである。
そして、男性の肉体に欲望を抱く(つまり男性を受動的な肉体、エロスと看做す)男性同性愛に
対する今日的タブーが成立したのもこの近代市民革命後である。
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渡辺恒夫は近代市民革命は男性に悲劇をもたらしたと捉えている。
対比するならば、フェミニズムは近代市民革命とほぼ同時期に発生した思想であり、
近代市民革命が男性にもたらした効果を肯定する、謂わば「女に近代市民革命が
起きないのは差別だ」思想であることに留意する必要があるだろう。
(勿論、200年以上経ってフェミニズムも多様化しているが)

近代市民革命と男性性の変容については、(私の嫌いな)伊藤公雄も、比較的似たようなことを述べている。
近代市民社会は、男性に「平準化」(身分制が無くなったこと)と「分化」(互いに異なる狭い範囲の職務を
こなすということ)をもたらし、その反動が男らしさ(力、権力、所有)を強調するロマン主義、
ひいてはファシズムを生み出したという見解である。(*1)

(*1)伊藤公雄 「男らしさ」の挫折 『自尊と懐疑 文芸社会学をめざして』作田啓一・富永茂樹編
(筑摩書房、1984)所収

2019年5月26日 (日)

渡辺恒夫『脱男性の時代』を読む その3

前回の記事で男性は「主体」であるが故に「美(客体)」になることが出来ないと書いた。
ということは、やはり、「主体」=「主役」=「男性」であり、
女性は「客体」=「脇役」として「モノ化」されているのではないかという主張が
フェミニストからなされるかも知れない。
だが、実は、今日において女性は「主体」になろうと思えば、簡単になれるのである。
具体例として、街には、自撮りしている女性達が溢れている。
その自撮りを止めて、スマホのカメラを男性に向ければ、その瞬間から彼女達は「主体」になりうるのだ。

もう少し、詳しく考えてみよう。
「自撮り、SNSアップ」は、『脱男性の時代』が出版された33年前は存在しなかった今日的風俗(?)の代表格であろう。
そして「自撮り、SNSアップ」をしているのは97.5%(当社推定値)女性なのである。
この「自撮り、SNSアップ」という行為の裏には「客体となりたい、ネットで客体として観賞されたい」という欲望があるのだ。
考えてみれば、女性の自撮りとは「客体自身が自らに好ましい姿を客体化」するという主体(男性)なき世界なのである。(注)
女性達は男や男社会に強要されて「自撮りSNSアップ」をしているのだろうか?
否。彼女達は自ら望んでそれをやっているのだ。
そして、それは寧ろ「主体」である筈の男性の方がどん引きするレベルにまで達しているのである。
女性のモノ化に抗議するフェミニストが対決しなければならないのは男/男社会ではなく自撮り女性である。
自撮りをやめることなど簡単なのに、それをやめない女性達だ。
フェミニストは「男社会に抗議」などという大上段なことは止めて、街で自撮りをしている女性たちに
「自撮りをやめてスマホカメラで男性を撮ろう」と呼びかけるべきだろう。
自撮りをやめて、男性を撮影し始めた時に「主体」としての女性が現れるはずだからだ。
しかし、フェミニストたちはそれをしない。
そんなことをしても、自撮り女性達から自分たちの提案が拒絶され、
挙句の果てには、女性の味方の筈の自分達が当の女性たちから疎まれるであろうことを本能的に察知しているのである。
だからこそフェミニストは「全て男のせい」にして男性を責めつづけ、
その一方で、女性達は何ら咎められることなく自撮りの快楽(自己客体化の快楽)に耽りつづけている。
それが『脱男性の時代』出版から33年経った現在の状況であるように思われる。

(注)本当に主体(男性)を必要としないかは、以前書いた「男性が全員女体嫌悪型同性愛者となった社会」を
想像してみて欲しい。
そのような社会でも彼女達は無邪気に「自撮り、SNSアップ」という行為を続けられるだろうか?
私は無理だと思う。

2019年5月22日 (水)

渡辺恒夫『脱男性の時代』を読む その2

一番最初の記事で「体系的には論じられないだろう」と断ったが、二番目の当記事で早くも、
前の記事と直接つながらない文章になってしまったことをお詫びしたい。
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この本で渡辺恒夫が一番言いたかったことは
近代/現代社会に於ける「成人男性(主体)であることと美(客体)であることの矛盾」で
あろう。
以下は私流の説明である。

成人男性(手っ取り早く言えば「おじさん」)が美しくないというのは物理的問題
(手っ取り早く言えば、ゴツゴツしているとか、毛深いとか、ハゲているとか)のようでいて
実はそうではないのである。
男性は「主体」、言い換えれば「観察者」でなければならない。
一つの「視線」として、常に客体(女)を冷静に観察しなければならず、
例え、女が快楽に我を忘れたとしても、自らは、その快楽に溺れることなく、
女を冷静に観察し、記述しつづけなければならないのだ。
決して「自分も我を忘れて快楽に溺れたい」とか「自分も美でありたい」と考えてはならない。
「主体」が我を忘れて自己陶酔したり、自らの美を主張することは、一種右翼チックな危険を孕んでいる。
その点、女性は「主体」から半歩身を引くことによって、「自分は美しい」という快楽を全面的に享受しているのだ。
(つづく)

2019年5月12日 (日)

渡辺恒夫『脱男性の時代』を読む その1

これから、私に男性論において最も影響を与えた本である
渡辺恒夫『脱男性の時代』(勁草書房、1986)について私なりに論じていきたいと思う。
本来ならば、体系的に論じるべきなのだが、場当たり的な書きこみが続くこととなるだろう。
というのも、体系的に論じようとしていたら、ものぐさな私は、いつまでたっても書きはじめることが
出来ないからである。

さて、最初に思うのは、この書籍、『脱男性の時代』ではなく『脱近代男性の時代』という書名に
するべきだったのではないかということだ。
実際、私が最初に図書館でこの本に出会ったのは1989年(丁度30年前だ!)だったが、
一番最初に書名を見て、私はてっきり「これからは女性の時代です」という女性礼讃の本だと思ったし、
最近もネットにおいて「男をやめようという本」と紹介しているサイトを見かけた。

実際にはこの本は「これからは女性の時代だ」という女性礼讃本でも「男をやめよう」本でもない。
「近代市民革命後の男性の在り方は人間の在り方として不自然であるから、
それ以前の本来の人間らしい在り方を取り戻すべきだ」という趣旨の本なのである。
(つづく)

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